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13 二軒目に行く日はこない
人を好きだと思うのはどういう時だろう。
フリューゲルみたいに、一目惚れしたで済むならば、そんなに簡単なことはないのにとミランは思う。
言葉通り、一目見て、それで好きになった。顔の造作か雰囲気か、ほかの何かかはわからないけれど、そこに理由はいらない。
否、一目惚れ以外でも、理由はいらないのだろうか。理屈で考えるということは答えを探すということに他ならない。
誰かを好きだとか、大切に思うとか、心というあいまいなものを表すのに、理由なんてつけようがない。
そういう話なのだろうか。
「……あんた、大丈夫?」
朝帰りしてきたその日から息子がやたらと考え込んでいるのに気づかない母親ではない。
ミランは心配そうな母に向かってため息を吐いた。
「この世の真理について考えてる」
「今さら学者にでもなろうっての? やめときな、あんたには向いてないよ。発表なんて苦手でしょう」
「そこ?」
「大事なことだろう? 自分の考えを人に伝えるにはセンスがいるんだよ。あんたは圧倒的にそれが欠けてるね」
そう突然こき下ろされた。本当に学者になりたいわけではないが、なんとなくむっとするのはどうしてだろう。
いまは朝食の片付けの最中だ。ミランは空いたテーブルの上をごしごしと布巾で拭いた。
父が座っていたあたりにソースのシミを発見する。こすってもなかなか取れないそれは、今のミランの頭の中に似ている。
考えても考えても、答えは出ない。ただ頭の中に、アデルの顔だけが浮かんでくる。
アデルはきっと、ミランに好意を寄せている。次にあった時、おそらく告白されるのだと思う。
けれど、ミランは考えてしまう。
どうして自分を好きなんだろう。好きで、そのあと、どうしたいのだろう。
好きだとわかりあったその先には一体何があるのか。男女なら結婚とか出産とか、いわゆる人生の転機があるが、男同士はその限りではない。
二人でいたい、ごく単純なことなのだろうか。理由を考えて答えを探そうとするミランが間違っているのだろうか。
「まーた意識が飛んでるね。困ったもんだね、一体どうしたんだい? この世の真理ってなんのこと? ……あ、あんたまさか、騎士様といたのは嘘で、女の子と遊んできてやらかしたってんじゃないだろうね!」
「違うよ!」
「無責任なことはいけないよ! あんなに遊んでたお父さんですら、お付き合いするまで手は出してこなかったよ!」
「……」
親のそういった話を聞くのは正直辛い。けれど、最も身近で意見を聞ける人なのは確かである。
ミランはこの際居たたまれなさには目をつぶることにして、母の話を聞くことに決めた。
「遊んでたって、父さんが?」
「うん。一目惚れしたはいいけど、知れば知るほどしょうもなくてね。いいところもあったけど、それ以上に女にだらしなかったのさ。本人は母親がいなかったから女に飢えてたんだーとか言ってたけどさ、それって気持ち悪いよね? あんたは母親と寝るのかっていう」
「……。……えーと、一目惚れならぬ二目嫌いにはならなかったの?」
「ならなかったんだよねえ。不思議だよね、あたしは絶対この人と結婚するぞ! って思ってさ、ずーっと付きまとってたよ。最終的にはむこうが音を上げて、無事入籍ってわけさ」
「へえ……」
どこをどう参考にすればいいのかすらわからない。ただ、思いを貫いた母の意志の強さはひしひしと感じた。
しかしこれでは混乱するだけだ。ミランは質問を変えてみることにした。
「父さんのどこに一目惚れしたの?」
「顔……いや、表情かな。優しそうだと思ったんだよね」
「なるほど。じゃあ父さんの好きなところは?」
「……お父さんの好きなところ? ……うーん、陽気なところと仕事は一生懸命やるところと……ああ、親を大事にするところかな」
「その好きなところをさ、父さんが全部なくしたら、もう好きじゃなくなる?」
ミランの質問は、母を驚かせたらしい。
そんなこと考えたこともないと顔に書いてあるようだ。
母は皿の同じところを何往復も拭いていたから、おそらく本当によく考えてくれているのだろう。
やっとその皿を拭き終わったころ、「わからないね」と答えた。
「わからないって……答えになってないよ」
「そもそもその良いところがなくなったら、それはお父さんじゃないじゃないか。答えになってないっていうけれど、あんたの質問だっておかしいのさ」
「……もしもの話だよ?」
「もしもの話でも! 例えばあんた、ミアちゃんがさ、ミアちゃんじゃなくなったらどう思うのさ。笑わない、話さない、人にじゃれることもしない。それはもうミアちゃんじゃないだろ?」
「……生きてれば笑いたくも話したくもじゃれたくなくなるときもあるんじゃないの? それにあの子はまだ小さいんだし」
「そういうことじゃなくて! ううん、難しい……なんて言えばいいんだろう」
そんな母の喚きを、ふいに大きな声が笑い飛ばした。
ぎょっとして振り向くと、ダイニングには祖父が座っていた。どうやらいつの間にか戻ってきていたらしい。
「ミランは頭が固いのう。まだ若いのにかわいそうに。どれ、じいちゃんが揉んでやろうか?」
「いらない、いらない。じいちゃんは……えーっと」
祖母の話をあまりしたがらない祖父にはこの話はふりにくい。
どうしたものかと言葉を選んでいたが、祖父は好々爺然としてミランを手招いた。
母に片付けはもういいと言われたこともあり大人しく座ると、「揉むというのは手じゃなくてもできるんじゃよ」と祖父が続けた。
「他人との問答の中に答えはあっても、他人の中には答えはないぞい」
「……え?」
「特に愛だの恋だの目に見えぬことは殊更じゃ。お前がいま必要なのは、答えじゃなくて整理に見えるがのう。好きな人がいるんじゃろ?」
「……いや、好きかどうかがわからなくて……」
「ミランにとって、好きとはどういうことなんじゃ? 他人の好きを聞くよりも、いまはそこから考えるべきじゃろうな」
「……」
それを考えようとすると、アデルはどうしてミランを好きになったのかに思考が及んでしまうのだった。
人付き合いもたいしてうまくなく、自意識過剰で顔を隠し、親や友人が危険な時に何もできずに震えている。
いいところなんてない。ミランがもしアデルなら、ミランを好きにならなかっただろう。
けれど、ふいに思った。
そういうことなのだ。ミランはアデルではないし、アデルはミランではない。自分がもし他人ならで考える行為に、妄想以上の意味はない。
「じいちゃんが言いたいのは、答えは自分の中にあるってこと?」
祖父はにやりと笑った。そのいたずらな表情のおかげで二十歳は若く見えた。
魔法具で連絡を寄越したアデルと会う日が決まっても、ミランはずっと、自問自答を繰り返していた。
**
待ち合わせを夜に控えたその日はやけに風が強かった。
フリューゲル騎士物語では、大切なことがある日はいつも風が強い。
巻によって、それが良いほうにも悪いほうにも作用する。自分が主人公という気はないが、今日の風はどちらだろうと、気もそぞろにページをめくりながら思った。
こんな日に限って午後から急に仕事が忙しくなり、最後の対応を終えたころには、約束の時間が迫っていた。
だんだんと雪が融け、最近では路面のけっこうな範囲が凍り付くようになっている。ミランは急ぎ足で、けれど転ばないように注意しながら店への道を急ぐ。
待ち合わせは初めて行く店だったが、大通りに面しており、ミランも外観だけは知っていた。ガラス張りのおしゃれな店内で、昼間はカフェとして営業していたはずだ。
店ではアデルが既に待っていた。
「すみません、遅れました!」
「構わないよ。いつもは俺が待たせていたしね」
今日の彼は仕事終わりのようで、騎士服だった。最近は私服ばかりだったので、なんだか久しぶりに見た気がする。今日も、逞しい体躯に重厚なその服は似合っていた。
アデルのおすすめをいくつか注文する。以前騎士団の集まりで使ったことがあるらしく、ミランの口に合いそうなものを考えて選んでくれた。
「ミランは具が大きい煮込み料理が好きだろう。あとスパイスが多く入っている料理」
「そうですね。アデル様は……辛い物がお好きですか?」
「周りで得意な人が居ないから避けているけれど、今日は勘弁してくれ」
「俺はけっこう好きなので大丈夫ですよ」
小さく笑いかけたミランに、アデルはふいに目を逸らした。その表情がどことなく暗く見えたので何事か訊ねようとしたけれど、彼は店員を呼ぶために手を挙げてしまっていた。
初めから二軒目に行くことは告げられていたので、食事をとってしばらくすると、二人は店を出た。
支払いでひと悶着あり、ミランは拒み切れずに押し切られた。次の店では絶対に払うぞと意識を固めておく。
「トマト煮込みが絶品でしたね! 辛くアレンジしてあるのは初めて食べましたけど、あんなに美味しいとは思いませんでした」
「本当に。しかし、ミランがこんなに辛い物がいける口とは思わなくて驚いたよ」
「祖父が苦手にしてるから普段は避けてますけど。実は俺と母は辛い物好きです」
「……知らないことだらけだ」
アデルが呟いた言葉が聞き取れずに聞き返すも、彼は何も言わなかった。
そういえば、先ほどの店で返そうと思っていたマフラーの存在を思い出し、ミランは持っていた袋をアデルに渡した。
「持っていると忘れちゃいそうなので、今ですみませんが」
「……」
アデルは受け取らないままふいっと視線を逸らすと、「こっちに」と少し先の馬車の停留所へミランを連れて行った。
街での移動は主に馬車が使われており、この時間はもう動いていないが、ひととおりの雨風はしのげるようになっている。
椅子の二つに並んで座る。ここから見える景色は、人が行き来する夜の世界だ。
家族連れに、カップルに、帰路につく仕事終わりの人。
笑顔の人もいれば、そうじゃない人もいる。風が吹くたびに身を竦ませているのが見えた。
今はアデルが魔法を使っているようで、寒さは感じなかった。その心遣いに胸が染みる。
傍らのアデルは何を考えているのだろう。ふと顔を向けると、アデルは首を傾けてミランを見つめていた。
焦がれると言えばいいのだろうか。眼差しを向けられている場所が焼けこげるのではないかと思うほどに視線が強い。
驚きですっかり逸らせなくなった視線を、ふいに逸らしたのはアデルのほうだった。
「次に会ったときに言いたいことがあると言ったよね」
「……はい」
「俺には、それを言う資格がなかったようだ。……すまないが、忘れてほしい」
「……え?」
食卓に置いたパンがころりと落ちるような、そんな不意打ちに、ミランは何も言えなかった。
――答えを。出そうとして、結局一人では出せなかったから、彼と一緒に考えようと思っていた。
答えは自分の中にあるという言葉に納得はしたけれど、一人きりで出して完結するとは思えなかったから。
唇がわななき、喉がぎゅうっと締まる。疑問の一言を口にするために、ミランはいつもの三倍以上の時間を要した。
「どういう、ことですか」
「俺は結局騎士で、君の嫌悪の対象になるということだ」
「……どういう、ことですか……?」
アデルはただ、力なく首を振るだけだ。
「君は以前言ってくれたな、今は騎士を嫌いとは思っていないと。あの時はとても嬉しく聞いていた。確かに困った騎士もいるが、少なくとも俺は誇りを持って職務についている。だから認められたようで嬉しかったんだ。……けれど」
数日前、マルティンと行った酒場で、アデルは母の幼馴染から、母のケガのことを聞いたのだという。
ミアがけん玉を失敗し、居合わせた騎士が激怒したこと。ミアを庇い、ミランの母が数日寝たきりになるような怪我をしたこと。
「……あれを聞いて思ったんだよ。俺は、俺を許せないと。俺が大切にしている騎士という職が、君を傷つけるものに成り下がっていると思うと、やりきれなくなる」
「そんな! ……あれは……でも……」
忘れていたわけではない。心の奥底に厳重にしまい込んで、鍵をかけて見られないようにしていた記憶がよみがえってくる。
見るだけしかできなかった。否、見るだけというのはおこがましい。実際はただ怯えていただけなのだから。
母のうめき声と、ミアの押し殺した声が昨日のことのように思い出される。
唇を噛んだミランに気づいたらしく、アデルは言いにくそうに何度も口を開いては閉じてを繰り返してから、
「……忘れていたというより、触れられなかったが……君は、奴らに……」
アデルは目を伏せ、言葉にならないようだった。
あの時のことを思い出すと背筋にぞっと嫌なものが走る。
嘲笑。奪われた自由。張られた頬。伸びる手……。
「君といるのが楽しくて、君が愛しくて……うっかりしていた。俺じゃ、君を守ることができない」
「……お、俺は……」
守ってほしいなんて言ってない。
ほとんど告白みたいなことを言うくせに、どうして彼は、ミランを突き放そうとするのだろう。
「だ、大丈夫、でした。未遂です。何もされていません……あなたに助けてもらいました」
「……確かに俺はあの時君を助けたよ。でも、俺は、君を守りたいんだ。体も、心も……君を傷つけるこの世のすべてから」
それは過ぎた願いだ。だって実際はそんなこと無理だから。
生きていれば傷は避けられない。体の傷も、心の傷も。誰かをこの世のすべてから守るなんて、そんなの、神様でもなければできやしない。
「諦めるんですか……」
口をついて出た言葉に、ミラン自身もびっくりした。
ぽたりと、雨が降ったのかと思った。握っていた手の甲に雫が落ちたから。
でも実際は、自分が流した涙だった。
ミランはぼろぼろ泣きながら、振り絞るみたいに言葉を発する。
「俺と、いることを……。俺を、守ることを……」
「……」
「アデル様……このままじゃ俺は、たくさん傷つきます。あなたが居てもきっと傷つくのに、こんなんじゃ、あなたが居ないことでもっと傷つきます。……そんな俺は、もう守ってもらえないんですか」
「……」
「何も言わないんですか……?」
呼吸の苦しさにぞっとした。どれだけ高い熱が出たらこんなに苦しくなるだろう。母はこんなに苦しかったのだろうか。体と心、対象は違えど、ミランの心は打ちひしがれてしまう。
返事がないから。アデルがいつまでたっても、ミランのほうを見てくれない。言葉としてはそれだけなのに、それだけではすまない。
「アデル様……アデル、さん……」
そう呼びかけた瞬間だけ、アデルはぴくりと肩を揺らした。けれど頭を振って、体から力を抜いた。
空気に、風に、まるでミランを守ってくれとでもいうかのように、彼はありったけの吐息を吐き出した。
「君が、好きだ」
「……どうして、そんなこと、言うんですか……」
「君が好きだからだよ。……ミラン」
アデルはふいに、ミランが入れた袋から、件のマフラーを取り出した。
涙を拭ってくれるのに、彼は一緒にはいてくれないという。
ふわり、風のようにマフラーをミランの身に纏わせて、にっこりと微笑んだ。
「君に、あげる。せめて寒さからは守ってくれるよ」
そして、振り返ることもなく去ってしまった。
ミランは遠ざかる足音をただ聞くことしかできなかった。いつか感じた時のような後悔にまた襲われ、けれど今回は、怯えではなく、唖然として立ち上がれなかった。
一緒にいられないと言われてやっと気が付いた。
告白を受け入れるかどうか、好きかどうか。そんなことを考えていたその時点で答えはでていた。
好きじゃないなら断ればいい。好ましいなら好きでいい。
低く艶のある声も、頼もしく伸びた背筋も、柔らかな金髪のうねりだって、ミランは気づいていたのに。
答えは自分の中にあっても、未来は自分の中にはない。そんな残酷なことがあるだろうか?
動く気力もなく、ミランはそのままそこでじっとしていた。今にも彼が、危ないから家まで送っていこうと戻ってくるんじゃないかと思った。
けれど、守れないと言ったのは言葉通り、それはありえないということだ。
ただ、どれだけ風が吹いても、ミランの体は寒くはないだろう。
マフラーをぎゅっと握りしめる。チクチクと、それは手に傷んだ。
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