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第1話

これは……涙なんかじゃない。雨が俺の頬を濡らしただけ。これは……ただの雫。  「おはよ、颯ちゃん」  「ああ、おはよ……流石に今日はキツイな」  「何言ってんの、颯ちゃん……やっぱり歳?」  連日休みなく収録、重い足取りで楽屋のドアを開けたとたん孝の能天気な声。  「颯ちゃん、真面目に頑張ろ!」  いやいや……。それ、あなたに言われたかぁないよ!楽屋にはもうみんな集まってて……一哉の姿も視線の先にあった。  高校時代からバンドをしていた俺達五人。俺は大学入学と同時にバンドから抜けるはずだった。それが何故かメディアの目に留まり、デビューすることになってしまった。多分、俺達五人が医学生だったって言うのが大半を占めてると思う。それとクラシックを主軸に構成したバンドだったてのもあるだろう。じゃなきゃ、腐るほどいるアマチュアバンドの中からデビューなんてありえないだろ?だけど……それも後、一年。俺は大学在学中だけの約束で契約を交わしたから。なのに……だ。ここにきて俺の中で迷いが生じてきていた。   手を振りながら一哉が俺の方にやってくる。今、正しく俺を混乱の中に追い込んでいる一哉が。  「おはようございます。ん?颯太さん、睡眠不足です?」  「どうして?」  「目の下にくまが二匹います」  そう言って一哉が笑った。俺の気持ちを何一つ知りもせずに。どこか幼さの残る笑顔に俺の鼓動がハヤマル。  「もしかして……緊張してます?颯太さんらしくないですよ!」  一哉の指が俺の頬に……。その指を俺は払いのける。  「颯太……さ、ん……?」  「あっ、悪い」  俺はそのまま一哉の横を通り、楽屋のソファー座り込みペットボトルの水を飲み干す。何、ドキドキしてんだよ?意識しすぎだ!何か感じ取った諒が隣りに雑誌を片手に腰を下ろした。  「颯くん……どうした?」  「べ、別に」  諒のニヤついた顔が俺をイラつかせる。  「恋やつれって顔してるけど……相手は……俺じゃないか?」  「りょ、諒!!」  「ん?図星?なんか、妬けるな……。誰?その相手?」  「うるさいよ」  「俺、颯くんが好きだよ。恋敵が出てきたって負けねぇし」  「おまえねぇ……あっちへ行けよ!」  「つれないなぁ……愛してるんだけどな、颯くん」  そう言った後、立ち上がった諒の顔は悪戯っ子のように笑っていた。ムカつく野郎だ!ん?でもなんで……恋やつれなんだ?  一ヶ月前……。感じたことのない不思議な感覚に囚われた。そう言えば来月は一哉の誕生日があるよな。あいつ、誰に祝ってもらうんだろう……?そんなことを漠然と考えてたと思う。そしたら何故か急に可愛い女性の顔が浮かんで。モヤモヤが晴れなっかった。今日は一哉の誕生日。「予定は?」なんて簡単に訊けそうなのに、その言葉が出てこない。なんでだ?そう考えていたら……諒が孝の近くに行ってしまったからか、一哉は俺の隣に座り  「颯太さん、熱でもあるんじゃない?顔が赤いですよ」  ……と言いながら俺のおでこに触れた瞬間、体と心に電気が走った。鼓動が早まり、今まで感じたことの無い胸の痛みを伴う感情に戸惑う。もしかして……俺は一哉に恋をしてる?いや、そんなことはない。今まで学友として、メンバーとしても仲良くやってきただろ!俺はどうしちまったんだ?何だよ……この感情は!!一哉からの視線が、更に俺の鼓動をハヤメタ。  雪が降ってきた。冷たい雪が……。楽屋の窓を閉めると降り出した雪が窓ガラスにあたり消えていく。それは……今の俺の気持ちを表しているように思えた。あたっては消え……一方通行のこの気持ち。降り出した雪を見て、俺はやっと一哉に対しての気持ちを自覚する。俺は一哉に気持ちが向いてると。俺は一哉が……好きなんだと。  「颯太さん」  一哉の囁くような……俺の名を呼ぶ声。他の三人はくんづけで呼ぶのに、俺だけはさん付けで呼ぶ一哉。高校の時からそうだった。一哉は作曲と作詞を担当していたから、ヴォーカルの俺に意見を求めて名を呼ぶんだけど……その声は囁くように小さな声で。孝や諒が騒いでると聞こえないほどの……。けど俺はその声が好きだった。俺だけさんづけで呼ぶ一哉の声が……好きだった。特別に感じて。  「おい、颯太に一哉!ほら、次の曲の収録するぞ!」  雪を見ながらぼんやりと考えていたらリーダーの陸翔が声をかけてきて、俺はその声にハッとする。この気持ちは……誰にも悟られてはいけない。勿論、一哉にも。なのに……収録の間中、一哉から目が離せない俺。そんな俺を揶揄って収録後、諒が耳打ちをしてくる。  「そんなに見つめたらバレるって!」  「……うるさいよ!」  「一哉だったんだ、颯太くんの想い人」  「おまえの思い過ごしだって。離れろよ!」  「このままで良いの……辛くなんねぇ?」  「だから違うって言ってるだろ!」  諒が嬉しそうに笑ってるのは何故だろうか……。  「そんなに俺と一哉をくっつけたいのか?それとも何か企んでんのか?」  「別に……ただ、一哉も意識してるってことを伝えたかっただけ」  意識してる?諒は何を言いたいんだ!一哉が俺を意識してるだって?そんな筈は……無い。その時、一哉と視線が重なり数秒見つめ合ってしまった。その瞳に映るのは俺なのか?諒が言ったように、俺だけがその瞳に映ってもいいのか?それとも……。  その日の収録が全て終わり、帰る支度をして裏口に向かえばそこに孝と一哉の姿があった。  「お疲れ」  一哉が見せた笑顔に俺の頬がゆるむ。  「お疲れ」  「もう帰る?車だろ?東京で雪なんて久しぶりだよなぁ。これから一哉の誕生日を祝おうって……。颯ちゃんも一緒に飲みにいかない?」  なんだ孝と一緒なのか……。そっか……。少し、安堵してしまう自分がおかしい。けど、今一緒に一哉といたら……。  「ごめん、今日は疲れてるから帰るよ……また、改めて祝わせてくれる?」  「そう」  「そう」と言った一哉の表情が、少し残念そうに見えたのは俺の勘違いなのだろうか。  「じゃ」  外はまだ雪が降っている。  「颯太さん」  一哉の声が聞こえた。その声に振り向くと傘を差し出す一哉。  「いいよ」  「俺は孝くんに入れてもらうから使って」  「……悪いな。じゃあ、借りるよ」  傘を取ろうと俺の手が一哉の指に触れてしまった。俺はそれが……何故かいけないことをしてるように思えて手を引っ込めてしまい、二人の間に傘がクルリと回りながら落ちていった。そんな俺に一哉は傘を拾うと俺の手に握らせてくれる。……ばつが悪い。一つの傘の下に一哉と俺。側を通った車のライトが一哉の顔を照らし美しく輝かせていた。何か言いたげな様子の一哉だったが、無言のまま時間だけが過ぎていく。キスしたい……この腕の中に一哉を抱きしめてキスをしたい。俺の指が一哉の唇に触れるが……。  「なにやってんの?」  孝の声で我に返った。  「一哉ってば、予約の時間!」  「孝くん、そんな大きな声で言わなくても聞えてますって……。じゃあ颯太さん、またね」  一哉は孝の傘に入るとそのまま振り返ることなく、孝が止めたタクシーの中に消えていった。今の俺の行動……一哉はどうとった?もしかして、バレたのか?だから一哉は何も言わず、振り返りもせず行ってしまったのか?  その夜、夢を見た。ずっと逢ってなかった恋人同士のように唇を求め合う俺と一哉。唇が離れると「強引だね」と少女のように恥らう一哉。その一哉を押し倒し、俺は一哉とキスを何度も交わすが……。  夢から覚めるとこの腕に抱きしめていた一哉は……いない。当たり前か……夢なんだから。俺、こんなんで大丈夫か?不安になる。一哉の笑顔……。一哉の唇に触れた指先……。思い出すだけで胸が苦しくなっていく。諒の言っていた言葉が気になる。一哉も俺を意識してるって……意識って何だろうか。俺と同じ気持ちだとでも?  その夜を境に、毎夜見る夢は同じ場面ばかりで……そこから先へは進まなかった。いつまでこんな夢を見せる気だ?一哉……夢の中でもいい。おまえを抱きたい。夢に出てくる一哉は俺の愛を受け入れてくれる。甘い吐息で俺を夢中にさせる。そしてキスを。甘えるようなキスを俺に求めてきてくれるのに……。現実の一哉は俺の名を呼び、笑顔しかくれない。  毎夜、見させられる夢にそれを悪夢とすら感じてしまう俺。夢から覚めた俺はいつも脱力感で身動き出来なかった。何だ、この夢……。どうしてこんな夢を見せるんだ?繰り返し何度も……同じ夢ばかり……どうしてだ?抱きしめることなんて出来ないのに……。その柔らかい唇に触れられないのに……。頬を伝った涙がシーツに落ちた。これは……ただの雫だ。涙なんかじゃない。涙なんかじゃ……。また雫が……俺の目から零れ落ちた。

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