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プロローグ

    プロローグ  イスキアは死神の足音を聞いた。緑がかった金髪はもつれ返り、エメラルドグリーンの瞳は濁って、唇がかさつく。〇〇という種族に属する者は、しつこく、しつこく、こう言い聞かされて育つ。    ──いいかい、遠くへ出かけるときは靴を履き忘れても、水筒は肌身離さず持って歩かなきゃ駄目だよ。  幾世代にもわたってヒトと婚姻を繰り返し、(おか)の暮らしに順応するに至った結果、乾きに耐性ができたとはいえ限界がある。ツムジのぐるりは常に適度な潤いを保つ必要があるのだ。種族の象徴たるがひび割れしだい、いよいよ死神の大鎌が振り下ろされる。  太陽が照りつけ、陽炎が燃える。イスキアは堪らず、その場に(くずお)れた。時空を超えて、出発前の持ち物の点検を怠った自分自身をぶん殴ってやりたい、と思う。水筒の底にぽつりと穴が開いていたことにその時点で気づいていれば、ちょろちょろと水が洩れっぱなし、という事態は避けられたのだ。身から出た錆とはいえ、草原の真ん中で野垂れ死にするなど洒落にならない。  話は、ひと月前に遡る。世継ぎたる者いちどは領地を見て回っておくべき、と二十歳(はたち)の誕生日を迎えたのを機にお忍びの旅に出た。従者をひとり伴って(みやこ)を発って以来、あるときは猟師とともに猪を狩り、またあるときは農夫に混じって麦を刈り、領民の暮らしぶりを垣間見た。  生きた勉強ができた反面、従者が二言目には「身分をお考えください」と口うるさい。げんなりして、今朝がた宿屋を出たところで撒いた。バチが当たったのだとしても、うたかたの冒険気分を満喫した代償が命では死神のやつ、ぼったくりがすぎる。  可憐な花が咲き乱れる大地を(しとね)に、意識がだんだん朦朧としていく。このまま命運が尽きて風葬に付される形になった場合は、こんな銘が墓碑に刻まれるのだろうか。  イスキア・シジュマバードⅩⅢ世、初恋さえまだのうちに非業の最期を遂げる──と。  そう、恋を彩る切なさも情熱も未知の領域に存在するものなのだ。怜悧な顔立ちも、しなやかな筋肉に(よろ)われた体軀も、いわば宝の持ち腐れ。  次期領主の座が約束されているのも相まって、将来の嫁候補は自薦・他薦を問わず次から次へと現れるのだが、すこぶるつきの美少女にさえ、ときめいた(ため)しがない。恋の「こ」の字も知らずじまいのまま天に召されるのは、あまりにも哀しい。 「み、水だ……水を浴びさえすれば、回復する……」  イスキアは気力を奮い起こし、ずるずると這って先を急ぎはじめた。だが、なだらかな上り坂が急峻な崖に変じたように行く手を阻む。這いのぼってはずり落ち、また這い進んではすべり落ちるうちに、あたりがメエメエと騒がしい。ぎくしゃくと振り向いて、ぎょっとした。  もっこもこの洪水が押し寄せてくるではないか。

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