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第2話

 なんのことはない、羊の群れだ。ただし、ざっと数百頭に達するだろう羊たちを率いているのは、ほんの子どもだ。ほそっこい躰にポンチョをまとい、腰には短剣を()びて、獰猛な顔つきの犬を従えて、というぐあいに勇ましい。  ともあれ救いの神が降臨したように思い、イスキアは子どもに向かって手招きをした。すると丸まったダンゴムシをつんつんしてみるふうに、杖の先っぽで背中をつつかれた。 「ぶ……無礼者めが!」  うつ伏せにひしゃげながら、それでも生来の威厳を漂わせて言葉を継いだ。 「坊主、この近くに水場はないか。このさい青みどろまみれの沼でも贅沢は言わぬ、案内いたせ」  水場、と子どもは鸚鵡返(おうむがえ)しに呟いた。くるりと背中を向けると、ポンチョをはためかせて軽やかに駆けていく。  よろよろとついていった先で、しだれ柳がなよやかにそよいでいた。枝をかき分けると、番兵に護られているように、滾々と水が湧きだす泉が緑を映してそこに在った。  喉が、ごくりと鳴った。イスキアはマントを脱ぎ捨てるのももどかしく泉に飛び込んだ。たちまち細胞という細胞が、はしゃぎだす。さしずめカチカチに乾燥した豆が、ふっくらと(ほと)びていくさまを思わせた。  もぐって、水底(みなそこ)でくつろぐ。ピンで留めつけてある髪飾り風の帽子をずらして、を恐る恐るをさわってみると、本当に危ういところだったのだ。  旱魃(かんばつ)にみまわれた大地のように、全体的にささくれてしまったそこに、泉水がしみ込んでいく。  ホッとして水中をたゆたいながら、しばし微睡む。生き返った思いで浮かびあがると、子どもは泉の(ほとり)にしゃがんで泥団子をこしらえていた。つぶらな黒い瞳が、好奇心にあふれて輝く。 「世話になったな。そなた、名は」 「ハルト、八歳、夢は世界一の羊飼い!」 「目標は大きく、立派な心がけだ」  イスキアは鷹揚にうなずいて返したものの、太陽をまともに見てしまったように、額に手を翳した。一体全体どうしたことか、泥だらけの手でこすったせいで黒い筋が何本も走る顔も、その顔に浮かんだ人なつっこい笑みも、光の悪戯が手伝ってのことか、眩しく感じられて仕方がない。  だいたいハルトという名前の響きじたい、ハープの音色のごとく玲瓏(れいろう)と鼓膜を震わせる。

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