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第3話

「え……っと、旅の御方も名を名乗れえ!」  拳銃を模した指を突きつけられたせつな、心臓を撃ち抜かれたような衝撃が全身を走り、あろうことか、ぶくぶくと沈んだ。命の恩人とは、かくも多大な影響をおよぼすものなのか。もっとも未来の統治者という立場上、しかるべし研鑽(けんさん)を積んできたおかげで、内心、すさまじくうろたえていても表情にはまったく出ないが。 「羊の世話をしなきゃだし、おれ、行くね。じゃあね、さよなら」  ハルトは敬礼の真似事でおどけてみせると、黒髪をなびかせて駆け去った。そして口笛を吹いて丘一面に散らばった羊を集める。犬に指示を与えながら群れを巧みに誘導するあたり、すでに一人前の羊飼いだ。  魅入られたように、イスキアは後を追った。ハッと我に返って、踏み分け道の手前で立ち止まった。  と、こんがらかった赤い糸が空から垂れてきて、その一端が自分の右手の小指に、もう一端がハルトの右手の小指に結わえつけられる幻影を見た、気がした。耳の奥で鐘の()が鳴り響く。なぜだか婚礼の儀で鳴らされるものを連想した音の正体は、羊たちが首からぶら下げている鈴、かけること数百。  まぎらわしい、とイスキアは殊更に眉根を寄せた。羊たちが寄ってたかって頭突きを食らわせてきても踏み分け道を突き進む。あえてハルトを追い抜いたうえで向き直り、自分のそれよりふた回り小さな手を、むんずと摑んだ。  世継ぎの証しに父から贈られた指環を薬指にはめてやり、自分の酔狂さかげんに呆れたぶんも堅苦しい口調で語りかける。 「命拾いをした褒美をつかわす。そなたが成人したあかつきに迎えを差し向けるゆえ、これは約束の印……いや、褒美の前渡しだ」 「困ってる人を助けるのは当たり前のことだもん。こんなの、いらない」  と、ふくれっ面で指環を突き返してくるのを押し戻し、突き戻されては押しつける。しぶしぶという(てい)でベルトにくくりつけた革袋に指環をしまうまで見つづけていると、頭のてっぺんのが、運命の序曲を奏でるように脈打った。 「よいか、努々(ゆめゆめ)約束を忘れるでないぞ」 「馬鹿にするな。おれ、こいつらの」  羊たちに向かって杖をひと振りした。 「名前だって、ぜーんぶ憶えてるんだからな」  白い歯がこぼれた瞬間、イスキアは改めて魂を射貫かれたように感じ、泉に駆け戻ってざぶんと飛び込んだ。  次期領主と羊飼いの卵という、かけ離れた境遇にあるふたりの人生双六は、こうして草原の片隅をふりだしに駒を進めはじめた。  それから十年の月日が流れた。

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