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第28話

 ──そなたを残して(やかた)を留守にするのは心臓をくり貫かれるように、つらい。    そう、熱っぽく囁いてのけるほどの芸当ができる性質(たち)なら苦労はしない。溺愛道の教本を頭の中でおさらいしようが、搾りたてのキュウリジュースで喉の調子を整えようが、駄目だ。  珠玉の想いは言葉に置き換えて紡ごうとするはしから、口中で泡雪のごとく消え去った。  それでも片恋こじらせ童貞三十路(みそじ)男なりに精一杯がんばったのだ。(いん)にこもった声で帰りは明日になる旨をハルトに告げると、キュウリの冷製ポタージュの皿へと伸びる手に、自身の手をかぶせていった。雛を翼でくるむように、そっと握った。    溺愛道の入門編でもたついている現状を打破すべく、肉体的接触を図る回数を増やす。  イスキアが決意も新たに、また伝説の火吹き竜退治に挑むくらいの勇気を振りしぼったなんて、ハルトは想像もしなかった。  ましてやイスキアがハルトに接するときは、デレデレ防止に口をひん曲げるよう努めるのが習い性となった結果、仏頂面が定着するに至った、とは夢にも思わなかった。なので気持ちを()み取るどころか、さも厭わしげに手を払いのけるありさま。  それでいて椅子に縫い留められて動けない。ぷいと朝食の間を出ていくどころか、エメラルドグリーンの瞳の奥で炎を思わせるものがちらつくと、やけにドギマギする。  あの羊は第四の胃袋にしこりができた、と慧眼ぶりを発揮する村一番の羊飼いなら、心をざわめかせるものの正体を解き明かしてくれるかもしれない──そう思った。  あらためてポタージュをすすりながら渋面を睨み返し、だが、気圧されて先に目を逸らした。ハルトに圧迫感を与えたものは、実は発酵しすぎて今や樽が内部爆発を起こすような恋情だった。    ──ジリアンには決して気を許さぬことだ。あれは、一筋縄ではいかない男だ。    などと、歩くとは左右の足を交互に動かすことだ、と幼子(おさなご)に教えるような調子で釘を刺すイスキアを「あかんべえ」で見送ってから数時間後の現在(いま)。  言いつけに従う、逆らうという以前に、ハルト自身、ジリアンのことがイスキアとはまた別の意味で苦手だ。  羊の群れが放牧地で草を食んでいるさなか遠雷が轟きはじめると、何頭かが暴風雨の犠牲になる予感に産毛が逆立つ。ジリアンが笑いかけてくるたび危険を知らせる犬の唸り声が聞こえる気がする。  ハルトは岩を踏みしめると、思いきり腕をしならせて釣り糸を放った。相手をしなければあきらめてどこかへ行く、と思ってそうしたのだが、ジリアンは小舟から持ってきた毛布を敷いて寝そべる。  そして画帳にイスキアの似顔絵を描くと、彼をめがけて飛んでくる何本もの矢を描き加え、それらをぐしゃぐしゃに塗りつぶした。

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