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第50話

 ──従兄殿が油断している隙を狙って髪飾り風の帽子をずらしてごらん、世にも珍しいものを拝めるよ。  そうだ、ジリアンの差し金に違いない。ハルトは言葉巧みに乗せられただけ。そう自分に言い聞かせても冷静さを取り戻すどころか、荒っぽく手首を握りしめて離さない。 「ジリアンさんがどうのってのは濡れ衣で、おれが帽子の下に興味があったの! 勝手にさわったのは、ごめんなさいだけど……」  黒い瞳が、くやし涙に濡れた。黒曜石に水晶の粒をちりばめたような美しさに魅了されて、イスキアはハルトの上からどくのが正解にもかかわらず、固まった。キッと睨んでくるさまは罪作りなまでに愛らしい。 「おれは、あんたの奴隷じゃない! 変てこ帽子野郎のくせしてギャアギャアわめくな、婚約解消だ、草原に帰る!」  それとなく四阿(あずまや)を振り仰いで、親方をはじめキュウリ組一同は囁き交わした。痴話喧嘩とは、お熱いねえ。  嗚咽交じりの罵声を浴びて、イスキアは内心すさまじくうろたえた。ぎくしゃくと手首を放すと、無意識のうちに渾身の力を込めていたとみえて、痛々しく鬱血していたから、なおのこと。 「……不快にさせて、すまぬ」  いやいやであっても握り返してくれれば、睦まやかな空気が流れた場面からやり直せる。一縷(いちる)の望みにすがって、のろのろと起きあがるところに手を差し伸べて、だがハエか何かのごとく払いのけられて、思う。  今こそ、この身を流れる血の秘密について打ち明けるときが訪れたのでは? カクカクシカジカの理由で帽子に触れるのは遠慮してほしい、と洗いざらい。ついでといっては語弊があるが、熟成を重ねた恋情のほうも吐露してみてはどうだろう。  無理だ、とイスキアは呻いた。一か八かに賭けるには、あまりにも()が悪い。勇を鼓したのが裏目に出て本当に去っていかれた日には、絶望の淵に沈むのは必至。  腰抜け呼ばわりされようが、刺客は返り討ちに仕留めても事、ハルトが絡むと怖じ気づいてしまうのだ。片恋こじらせ童貞三十路男の呪いは強力で、わたしを雁字搦めにする。 「すまぬで、すむか。仰せの通り膝枕してあげた、あとは何が望みだ、侮辱されても我慢していれば満足するのか!」  と、ものすごい剣幕でまくしたてながら小さな拳でぽかぽかと胸を殴ってくる。その胸に、甘酸っぱいものが満ち満ちていく。  拡大解釈すると、この状況は記念すべき初喧嘩。過ちを償うにしても、ただ平謝りに謝るのでは芸がない。恋愛音痴の強い味方は、通信講座で勉強中の溺愛道だ。確か教本の第二集にこういった場面にぴったりの参考例が載っていたはず、と記憶をたぐり、そこで恋心が奇策を授けてくれた。  ただし効果のほどは神のみぞ知る、という危険性をはらんだ代物(しろもの)。吉と出るか、凶と出るか吉と出るか……独りでに手足が動いた。

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