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愛がなければ砂の味 1
どんなに渇いていても、その喉を潤すことができない。
甘露どころか、砂の味しかしない。
それが、吸血鬼の和泉 世津 が初めて血を吸った感想だった。
現代社会においては、吸血鬼や狼男、夢魔や天狗、人魚の類などが、ごく少数生き残っているが、数としては人間に到底及ぶはずもなく、彼らは滅びたものとされて、ひっそりと影に隠れて人間のふりをして暮らしていた。
世津、奈帆人 、千都 の三人兄弟は、まだ若い吸血鬼だったので、一つの街、一つの家で育てられた。力を使いすぎたり、気を抜くと蝙蝠 の姿になってしまう奈帆人が、小さい頃に隣りの家で蝙蝠になって落ちていたときから、お隣りさんとの交流は始まった。
金色の髪に水色の目の左岸 衛陸 は、その当時は大学に入ったばかりの学生で、まだ小学生だった世津や奈帆人をよく気にかけてくれた。
「両親は日本人だけど、悲しい事情があって、私と兄を引き取ったのよね」
18年前の秋の日に、左岸の両親の元に生まれた赤ん坊は、死産だった。その同じ夜に二人の赤ん坊が病院の前に捨てられていた。その二人を、失った赤ん坊の代わりに育てようと、両親は養子にしてくれたのだ。
「着せられてた産着にEricて書かれてたみたいなの。それで、私は衛陸なんてゴツい名前になっちゃって。漢字にしたらゴツすぎるから、エリさんって呼んでくれる?」
まだ6歳だった奈帆人は長身でがっしりした体つきの衛陸をぽぅっと見上げ、11歳だった世津は奈帆人が目の前で蝙蝠からひとの姿になったのに然程驚かなかった衛陸に、信頼を置いた。
成長していくにつれて、吸血鬼は渇きを覚えるようになる。けれど、愛する相手、運命の相手でないと、その渇きを根本的に癒せるものではない。
15歳の年に血を飲まないで生きていくのは厳しいからと、留守がちの両親があてがった女性の血を渋々飲んで、世津は吐いてしまった。
「不味い! こんなんなら、トマトジュースでも飲んでた方がマシや!」
元々仲のいい親子ではなかったが、それで完全に決別するような形になって、世津が18歳になった年に、生まれたばかりの千都を置いて両親は二度と戻らなかった。
渇きを覚えることはあるが、あんな砂でも喉に流し込まれるような思いをするくらいならば、飲まない方がいい。そう決めた世津は、吸血鬼として人間よりも長い寿命は得られなくても構わない、人間と同じように寿命を全うすれば良いと思っていた。
22歳で大学を出ると同時に、書いた純文学の本が賞をもらって、その見目の良さも評判になって一躍有名になった世津は、翻訳家になっていた衛陸に資料の翻訳を頼んだりして、そこそこ幸せに暮らしていた。
高校生で17歳の奈帆人もそろそろ血が欲しくなる時期だろうが、彼は衛陸に夢中でもじもじしながら隣りの家に通っている。
運命が現れたのは、23歳のときだった。奈帆人の大学も決まってホッとしていた、春の前のこと。小雪のチラつく日に、そのひとは現れた。
「前に話したことがあるでしょう。一緒に病院で拾われた双子の兄よ」
衛陸と共に拾われたのだから、血縁関係があるのかと思っていたが、彼は全く違っていた。
白い肌に金色の髪、涼やかな水色の目の衛陸とは対照的に、褐色の肌に癖のある黒髪、目は猛禽類を思わせるオレンジ色だった。
「左岸 晴海 です。どうぞ、よろしくお願いします」
住んでいたアパートが火事で焼けてしまって、身一つで弟のところに頼ってきたという晴海。
「和泉世津いいます。こっちは、弟の奈帆人、こっちは妹の千都です。……エリさん、俺らのことは?」
「あなたたちから話した方が良いかしらと思って」
リビングにお招きして、お茶を振舞いながら、世津は自分たちがひとではないことを説明した。
「俺らは吸血鬼ですねん。と言うても、無差別に襲うようなことはしませんよって」
「大丈夫です、弟がこれだけ信頼している方ですから、そんなこと思いもしません」
深みのある穏やかな喋り方と、鋭くも見える彫りの深い顔立ちが柔らかく笑むのに、世津は見惚れてしまう。甘く良い香りが晴海からしてくる。
「私は仕事で家に戻るけど、はるちゃん、どうする?」
「もう少し世津さんとお話しして帰るよ」
一目で信頼できると分かった衛陸と同じ雰囲気を纏った晴海は、ラフなシャツにしっかりとした体付きで、その首筋から世津は目が離せない。
「あにうえ、ちづは、おへやであそんできます」
「俺、エリさんの家に行ってくるわ」
そそくさと千都と奈帆人が席を外したのも、世津の普段ならば黒い目が、獲物を捉えて赤く変わったのに気付いたからだろう。
「エリさんに、はるちゃんて呼ばれてはるんですね。俺もはるさんて、呼んでええですか?」
「どうぞ。敬語も使わなくて構いませんよ」
衛陸と同じ年ならば、30歳で世津よりも7歳年上。そんなことを感じさせない気さくな笑みに、世津はするりと無防備な晴海の首筋を撫でた。膝に乗り上げるようにすると、オレンジ色の目が見開かれて、不思議そうに世津を見つめている。
ずっと渇いて求めていた。
我慢することなどできず、首筋に歯を立てると、ふつりと皮膚の裂ける感触がして、甘い味が口の中に広がる。
「あぁ、美味しいわぁ……」
恍惚とするくらいに甘く美味しい血を啜ってから、世津は濡れた唇を舐め、晴海の首筋に残った血をもったいないとばかりに舐めて、口を離した。何が起こったのか分からない様子で、晴海は完全に固まっている。
「あんさん、俺に出会うために生まれてきてくれはったんやね?」
「え? は? 俺の方が年上ですよね?」
順番的には反対だと言う晴海に、世津は笑ってしまう。
運命になど出会えるはずがないと信じ込んでいたのに、運命はこんなにも簡単に手の平の中に落ちてきた。
「俺だけに、血ぃ、飲ませてくれはる?」
「あ……血を飲まないと生きていけないんですね。大丈夫です、俺、献血に行けるくらい健康ですから」
「誰の血でもええわけやないんよ?」
あんさんの血でなければ、口にするのもおぞましい。
その言葉が晴海に届いたのか、届かなかったのか。
その日から、晴海は世津に血を分けてくれるようになった。
小説の執筆が忙しいときには、衛陸がお隣りからご飯を持ってきてくれる。逆に衛陸の翻訳の仕事が忙しいときには、世津たちがご飯を持って衛陸の家を訪ねる。そうやってずっと助け合って生きてきた。吸血鬼だということを簡単には明かせない和泉家にとって、衛陸は心許せる唯一の頼れる相手だった。
それに晴海が加わって、世津の生活には一気に潤いができた。お互いの家を行き来して食べる食事はとても楽しい。
「はるさんも、エリさんと同じで、お料理が上手なんやねぇ」
「一人暮らしが長かったからですよ」
大学に入るときに空き家になっていた両親の家に戻ってきたという衛陸は、晴海と両親と長く海外赴任について行っていたようだった。大学入学を機に、二人とも日本に戻ってきて、晴海は大学近くのアパートに、衛陸が自宅に戻ってきた。大学教授の両親はまだ海外で研究を続けているという。
「お隣りさんがエリさんで良かったとずっと思ってたけど、はるさんは、俺の運命やったんやね」
「運命……第九ですか?」
「大工? あんさん、大工やの?」
どうにも会話が噛み合わない気がするが、じっと世津を見つめる晴海の目には、熱っぽさがあって、それが世津には心地良い。小説で賞を取って有名人になってから、寄ってくる人間も、人外もいたが、彼らの視線は気持ち悪かったし、血にも微塵も魅力は感じなかった。それが今は、晴海の姿を見るたびに胸は高鳴るし、甘い誘うような香りに喉の渇きを覚える。
渇いているのは喉だけではない。晴海の全てが欲しくて堪らない。
吸血鬼は生涯に一度だけ、たった一人の伴侶を持つことができる。その伴侶は吸血鬼と同じ長い時を老いずに生きていくことになる。
人間である晴海にとっては、老いずに長い時を生きるということは、人間の両親や周囲を置いていくことにもなるので、覚悟が必要だろう。まだそのときではないと言い出せないでいる世津に、晴海は血を分けてくれていた。
食後には二人きりで部屋で、晴海がシャツのボタンを寛げて首筋を晒してくれる。吸血行為は性行為にも似ていて、渇きが癒えると共に、吸血鬼には激しい快感を伴う。伴侶となれば晴海も同じ感覚を味わえるのだが、まだ性急にことを進めたくないので、世津は血を吸った後に、激しい性的欲求に耐えていた。
「大工じゃないです。俺は、陶芸家ですよ」
とろりと快感に蕩けそうになって、くたりと晴海の逞しい胸にしなだれ掛かる世津を支えてくれながら、晴海がリビングでの話の続きをする。
「陶芸家……どんなものをつくらはるん?」
「陶器も磁気も作りますが、最近は絵付けに力を入れてます。うちで使ってる食器はほとんど、俺が作ったものですよ」
「あの綺麗な青いお花の?」
衛陸の家で使わせてもらっている器は、確か白地に青い花の柄が多かった気がした。
「それです。世津さんのお仕事は?」
「俺は、小説書いてるんやけど……知らん人は知らんか」
お近付きの印にと渡したのは、賞を取った小説で、それを大事に抱えて晴海は隣りの家に戻って行った。
「はるさん……なんてかわええ御人 なんやろ。俺の顔、じっと見てはったわ。はよ俺のもんにしてしまいたい。あぁ、でも、お淑やかな御人やもんな、無理やりはあかん。もしかして俺のこと抱きたいとか……いやいやいや、あんなに可愛いんやから、はるさんが抱かれるべきや!」
ぶつぶつと独り言を言いながらリビングで食器を片付けていると、5歳の千都の視線が刺さる。
「つうじてるといいですけどね、あにうえ」
「もう、婚約したも同然やろ?」
喜んで血を差し出してくれて、首筋などという急所を晒してくれる。
それが吸血鬼にとっては愛の証であっても、晴海にとっては献血程度の意味しか持たないなど、世津は知る由もなく浮かれるのだった。
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