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蜜月⑥

「ゆうちゃん……」  真っ青な顔の明日美が優希にしがみついてきたのは、アメリカに出発する前日の深夜のことだった。 「明日美?!大丈夫か?」 「……助けて」  一人では立ち上がれないらしく、震える声で「どうしよう」と呟いている。 「明日美??何があった?」 「助けて……」    涙をぼろぼろとこぼしながら「赤ちゃん」と訴えてくる。 「赤ちゃん?」 「血が……」  ガタガタと震える指でおなかをさす。 「止まらないの、さっき、急に痛くなって、トイレに行ったら……血が」  見ると明日美のスカートに血が染まってきている。優希からも一気に血の気が失せた。 「おい、しっかりしろ!救急車呼ぶから、明日美!」 「助けて……お願い、わたしたちの」  そのまま痛みのせいか顔色をなくした明日美はおなかを抱えてうずくまった。一刻も争うと救急車を呼び、駆け付けた隊員に事情を話す。手際よくタンカに乗せられ運ばれていく明日美を呆然と見つめていたら、隊員に急かされた。 「早く一緒に乗ってください!」 「でも」 「早く」  真っ青な顔で横たわる明日美には血の気が感じられらなかった。うわごとのように優希の名を呼ぶ。 「ゆうちゃん……」 「ここにいるよ」  サイレンが深夜の街に鳴り響く。ガタガタと揺れる救急車の中のイスに座り手を握ると、安心したように瞳を開けた。 「助かるよね」 「大丈夫だ」  うん、と頷く明日美は再び瞳を閉じる。痛みが強いのか時々うめき声をあげる姿を見ているだけで心臓がつぶされそうだ。助けてください、と何度も祈った。  彼が明日美を顧みず裏切っていたから罰が当たったのかもしれない。罪を犯したのは彼であって、明日美は被害者だ。罰が当たるなら優希にしてほしかった。どうか彼女をつらい目に合わせないでください__そう願いながら、一番傷つけつらい目に合わせているのは優希本人なのだ。それを嫌というほど叩きつけられる。どうか、と祈るように明日美の手を握った。彼女もおなかの子供も無事でありますようにと。  病院につくと、すぐに明日美は処置室へ運ばれていった。ガラガラとストレッチャーが暗い病棟の中を走り、慌ただしくかけつけるドクターやナースにお願いしますと頭を下げる。処置中のライトがつくと、優希は暗い廊下のベンチに座って祈るように見つめていた。じれったいほどの時間が流れていく。誰もいない静かな病院の廊下にひとりでいると、これから味わうであろう明日美の孤独を思った。たった一人大きくなるおなかを抱え、途方に暮れている姿を思い描く。時計を見ると、あと数時間で空港へ向かわなければいけない時間になる。  禄朗は空港で待っている、と言っていた。あれは優希に最後を預けてくれたのだ。答えを出すのはおまえだぞ、と自分の決心を見せてくれた。  ポケットの中のチケットを取り出し、眺める。禄朗との未来。彼の隣で、彼のためだけに彼の望むままに生きていくはずだった未来。優希は小さく息を吐くと、心を決める。  前回は禄朗が優希を捨てていった。だけど、今回は優希が彼を捨てるのだ。震える指でチケットに手をかける。ビっと高い音がして、チケットに亀裂が走った。そのまま一気に引き裂く。半分になったチケットをさらにこまかくしていった。それはまるで優希の心を破いていく作業に似ており、強い痛みが伴う。 「愛してる」  大好きでたまらないけど、でもさよならだ。  優希は細かくなったチケットを掴むと、近くにあったゴミ箱へ放り投げた。もう戻らない。明日美を捨てることなんて、彼にはできなかった。  薬がきいているのか、病室に運ばれた明日美はぐっすりと眠ったまま。ベッドのそばのイスに座っていると、看護師が呼びに来てドクターの説明を受けた。  ストレスによる切迫流産になりかけていた、ということだ。幸い子供の生命力が強いらしく大事には至らなかったけど、しばらくは入院して安静するようにとのことだった。 「あともうちょっとで安定期に入りますからね。そこまでがんばって乗り切ってもらえれば、いったん安心ということになります。油断はできませんが、どうかあまりストレスを与えず大事にしてあげてくださいね」  年嵩の優しい笑顔のドクターは優希に言った。 「妊娠は病気じゃないって言いますけどね。体の中で命を育むって本当に命がけなんですよ。体の変化、心の変化、みんな少しずつ母親になっていくんです。それを周りがサポートしてあげなければ、とてもじゃないけど妊娠出産なんて耐えられるものではない。お父さんのサポートが一番大事なんです」 「はい」 「出血も多めだったし、母子ともにあぶなかったですよ」 「……はい、ありがとうございます」  サポートどころか大きなストレスを与えてしまった優希は、ひたすら頭を下げた。 「ぼくに謝られても仕方ないですよ。これからは奥さんを大事にしてあげてくださいね。がんばってしがみついて生きようとしたお子さんも」 「はい、本当にありがとうございます」  何度も頭を下げて診察室をでた優希は、端末から禄朗の名前を消した。もう心が揺らがないように。  禄朗との待ち合わせの時間がもうすぐ迫っている。だけど空港へは行かない。来ない優希を知って、彼はがっかりするだろうか。それともこうなることをわかっていたのだろうか。  禄朗との数ヵ月は幻のような、夢のような時間だった。彼に愛された時間がこれからの優希に勇気をくれる。  病室に戻ると、ちょうど明日美は目を覚ましたばかりのようだった。不安げに病室の中を見回している。「具合はどう?」と声をかけると、おびえたように彼を見た。 「ゆうちゃん……?本物?」 「そうだよ、気持ち悪かったりつらかったりしない?」  ベッドに腕をつき明日美の顔を覗き見た。さっきより赤みがさしているのを見つけて安心する。 「ごめんね、不安にさせて。でも、もう心配しなくていいよ」 「……ほんとうに?」 「うん、有休あるから。それに、しばらくぼくがいるから大丈夫。赤ちゃんも心配ないって。だから明日美はゆっくり休んで」 「赤ちゃん、大丈夫なのね?」 「生命力の強い子ですって、先生が。だから大丈夫だよ。でも、無理はしちゃダメだって」  おなかに手を乗せ、「がんばったね」と子供に声をかける。妊娠がわかってから初めてのことだった。 「うん」  明日美の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。ほほを濡らし、枕に黒い染みを作る。今までずっと不安にさせていたことを思い知った。きっと一人で抱えきれず途方に暮れていたのだろう。その心を考えるとギュっと胸が絞られた。  今までの不誠実さはどうやっても償えない。自分だけの幸せを求めてしまった優希を許すことはできないだろう。それは仕方がない。だけどせめて……これからは明日美と子供を守っていこう。    彼はそう誓うと心の中でつぶやいた。  __さよならぼくの初恋。

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