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運命のいたずら①
春になるにはまだ早い寒さの中、優希は華やぐ街の中を歩いていた。ウィンドウにはパステルカラーのディスプレイが彩り、新生活の準備を急かす。「パパー」と呼ばれ下を向くと、しっかり繋がれた小さな手に引っ張られた。
「あのね。花、ランドセルはやっぱりピンクがいいとおもうの」
「そうか、ピンクが好きなの?」
「うん、だっておんなのこはかわいいほうがしあわせなんでしょ?」
「そうなの?」
ませたセリフにびっくりして、花の反対側の手をつなぐ彼女を見る。おかしそうにクスクス笑っていた。
「花は可愛いものがすきだもんねえ」
あの時流れかけた命はしっかりと明日美にしがみつき、玉のような女の子となって優希の前へ産まれ出た。腕の中にすっぽりと納まった小さな命はずっしりと重く、その力強さに彼は涙をこぼした。
「花」と名付けたのは優希だ。どんよりと暗かった彼の世界を明るく照らしてくれた、花のように可憐な女の子。禄朗を失った代わりに手に入れたものは、思いがけないほど大事な宝物へと育った。
「パパもやっぱりかわいいほうがすきでしょ?」
「花だったらなんだって好きだよ」
小さくて儚い命はすくすくと育ち、次の春には小学校へ入学する。
「にゅうがくしきでも、かわいいわんぴーすがきたいの。だって、さやかちゃんもわんぴーすかってもらったっていうんだもん。花もほしい」
幼稚園から一緒に上がる女の子の名前を出して、それに負けたくないと主張する。
「そうか、いいよ。買ってあげる」
「やったー」
パパ大好き!と言われ嬉しそうに笑う優希を見て、明日美はまぶし気に目を細めた。
「ゆうちゃんは花に甘いんだからー」
壊れかけた明日美との関係も花が産まれたことで再び結びついた。最初は不安がっていた明日美だが、禄朗と別れ献身的に尽くす優希を許してくれる気になったらしい。明るく笑うようになった。
「じゃあ、花の好きなワンピースとランドセル探そうな」
「うん!」
三人で並んで手をつないで歩く姿は、どこかから見ても仲の良い家族に見えるだろう。
「こちらお願いしまーす!」と小さなビラを渡され、何気なく目を止めた優希。ギクリと動きが止まる。それは明日から開催されるという写真展の案内だった。
『オリオンの行方』と題された展示会の広告。そこに映された写真は、ひねられたウエストの上にある小さなオリオン__見覚えがある三つ並んだほくろと、四つの赤いキスマークのついた道しるべだった。カメラマンの名前は『須賀禄朗』。
「……っ」
思わず落としたビラを明日美が拾い、「やだ」と顔をしかめた。
「ちょっと子供には見せたくないよね……」
それがまさか優希のものだとは知らず、不快感をあらわにする。
「……そうだね」
帰っていたのか。
今、この場所に禄朗がいる。もう二度と会えないと思っていたのに。目の前が真っ暗になっていくのがわかる。めまいに襲われ、グラリと体が揺らいだ。自我が保てないほどに。
「……ゆうちゃん?」
訝し気に明日美が顔を覗き込んできたその時だった。ふいに背後に聞きなれた低い声が響いた。
「それじゃ明日からよろしくお願いします」
「楽しみにしてるよ」
恐る恐る振り返る。会ってしまえばどうなるかわかっているのに、見ずにはいられなかった。華やかなショップの連なる中、シンプルで小さな間口がぽっかりと口を開けている。ひっそりと存在する画廊から出てきた男が、いかにも芸術家と思われる初老の男性に頭を下げているところだった。
「禄朗」
思わず名前を呟いていた。そこにいるのは紛れもなくあの日別れた禄朗だ。優希が愛したままの姿で、笑顔を浮かべている。ほんの少し痩せたかもしれない。さらに精悍さを身にまとい、強いオスの気配を漂わせてそこに存在している。
笑みで男性を見送った彼がふいに視線を流した。火花が散るように視線がぶつかり合う。彼の動きが一瞬止まり、声を発さないまま口は「優希」と形作られた。
「……あ」
ふらりと足元から崩れ落ちていく。心臓がおかしいくらい鳴っている。
「きゃあ」
突然倒れた優希に、明日美が悲鳴を上げた。
「大丈夫かよ」
慌てて駆け寄り、体を支えてくれる力強さを知っている。これが欲しくて、どうしようもなくて、でも手放してしまったもの。その熱が今、優希に触れている。どうしよう。今すぐにでも縋りついてしまいたい。
「パパだいじょうぶ?」
我に返してくれたのは、愛娘の声だった。まだ小さなモミジの手が、優希の背中を撫でている。
「花……」
「パパぐあいわるいの?びょういんいく?」
「大丈夫だよ」
傍らの花を抱きしめて立ち上がった。ぐっと責任の重さが体にかかる。
「すみません。ありがとうございました」
目の前にいる、愛してやまない男に向き合い頭を下げた。互いに他人のふりをするこの距離が、今の二人を示している。
「ちょっとめまいがして」
「いや、大丈夫ならいいんだけど、さ」
抱っこされた花と心配そうに寄り添う明日美に視線を送り、禄朗は笑みを浮かべた。
「幸せそうなご家族ですね」
「……ありがとうございます」
声をかけられた明日美は一瞬つまり、でもにこやかに答えた。
「すみません、ご迷惑をおかけしました」
「いえいえ、大事がなければ結構です」
今までも散々人を虜にしてきた魅力的な笑みを浮かべられると、明日美はぽっとしたように頬を赤らめ頭を下げた。
「お礼は、また」
「それには及びませんよ。お大事に」
彼は艶やかに笑うと、優希へ視線を向けた。その視線が物語る意味を深く考えちゃだめだ。一瞬でも気を許したら消せない欲望に負けてしまう。
「それじゃ……」
もう一度頭を下げ、禄朗のそばを通り過ぎた。瞬間懐かしい香りが鼻に届く。優希の愛した彼の匂いだ。
戻れない過去。捨ててしまった未来。優希が選んだのは今、隣にいる家族の形で、禄朗とは道が過ぎてしまった。もう一度並んで歩きだすと、我に返ったように明日美は声をかけてきた。
「ひゃー、びっくりした!ゆうちゃん、大丈夫?」
「パパもうくるしくない?」
かわるがわるの心配に「大丈夫だよ、心配かけてごめん」と謝りながら振り返らないと心に決めていた。
決めたのに__こんなにも心が痛い。
◇
くしゃくしゃになって捨てられていたビラをゴミ箱から拾い上げて、じっと見つめる。ニ週間ほどの展示会をあの画廊でやるらしい。
『新鋭写真家。アメリカより帰国して初の個展。__あなたにとっての道しるべは何ですか?』
優希の見たことのない写真の数々がそこには煌めいていた。風景を撮るのが好きだと言っていたあのころと、撮る写真の雰囲気がかなり違っている。昔はもっと柔らかく優しかったのに、今回の個展の写真はどこか廃頽的で攻撃的でさえあった。一番大きく掲げられている写真は、別れる数日前に撮った優希の裸。
__おれの道しるべは優希のオリオンだ。
シャッターを押しながら、甘く囁く禄朗の声を覚えている。まさか写真展に出されるとは思っていなかった。
二人だけの秘密のように撮っていた彼。このほくろを知っているのは彼しかいないのだから、だれも優希の裸だと気がつく者はいないだろう。とはいえ、不特定多数の目にさらされるのは、ほんの少し抵抗があった。いくらアートめいていたとしても、これは個人的に禄朗と交わした時間なのだ。
でも、と思い直す。離れていても、別れてからも優希は彼にとっての道しるべになれていたということか?ずっと大事に思ってもらえていた?それは都合のいい幻想にすぎるだろうか。
もう一度ビラに記されているオリオンを眺めた。妻である明日美でさえ汚らわしいものを見るように顔を歪めていたこの体を、「綺麗だ」と愛しんでくれた、たった一人の男。支える腕の力も、ふわりと香ったたくましい禄朗のにおいも全部記憶の中のものと同じだった。今でも好きだ、と思ってしまう。
会いに行ってしまったらどうなるのだろうか。今でも愛していてくれるのか。何もかも忘れて、その胸に飛び込んでしまいそうで自分が怖くなる。優希は熱いため息を、ひとつついた。
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