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運命のいたずら④

 目を覚ますと、強い消毒薬の匂いにつつまれていた。動かそうとした全身がものすごい痛みに襲われ、思わず呻いてしまう。それを聞きつけたのか、明るい声が優希の苗字を呼んだ。 「斎藤さん。目が覚めましたか?」 「……ここ、は」  朦朧としたまま辺りを見渡すと、真っ白くて清潔な一室にいた。ベッドに寝そべった自分が、細いチューブに繋がれているのが視界に入る。 「斎藤さん、わかりますか?」  顔を覗き込んできた看護師が柔らかく笑みを浮かべながら声をかけてくるのに、うなずいて答える。ということは、病院のベッドにいるのか。記憶があいまいに途切れている。 「どこか痛いところはありますか?具合は?」 「大丈夫です……痛っ」  体を起こそうとしてもままならず、ふたたび壊れそうな痛みが全身を貫く。 「動かなくて大丈夫です。今ドクター呼んできますからね」  ほどなくして若いドクターが優希のもとへやってきた。不安を拭い去るためだろうか、あえて軽い口調で声をかけてくる。 「斎藤さーん、わかりますか?」 「はい、大丈夫です」 「体、見させてもらいますよ」  ドクターはカーテンで仕切り、二人だけの空間を作る。体の外の傷だけでなく、奥深く体内の傷までじっくりと診察した。さすがにお尻を突き出す形での内診に抵抗を示したが、恥ずかしいと思う暇もなく検あらためられてしまった。「斎藤さん」と診察を終えたドクターは、淡々と今の容態を説明した。 「骨折などの大きなけがは見当たりませんでした。打撲や打ち身などはもう少ししたら落ち着いてくると思います。今は色が強く出ているので痛々しく見えますが、あと少しで目立たなくなるでしょう。ですが」  声を潜め、(おもんおあか)る口調で続けた。 「体内の傷は結構な痛手を負っています。裂傷もひどいですし、普通異物を入れるべきじゃない場所に暴行を加えられているダメージはかなり大きいと思います。ただ括約筋かつやくきんなどへの負傷は見受けられないので、障がいなど起こらないでしょう。それだけが不幸中の幸いだったかもしれませんね」  ドクターはそこまで言うとほんの少し言葉に詰まり、優希へ向き合った。 「救急車で運ばれてきたときは全身震えて危ない状態でした。出血も多く、暴行事件として警察に通報しようかと思うくらいでした。でもあなたはそれだけは絶対にやめてほしいと訴えましたね。こちらもご本人の要望だったので通報しませんでしたが……斎藤さん、これはレ◯プ事件じゃないんですか?」  両手を握り締めて、だまりこくった。レ◯プで違いない。だけどこのことが公になったら禄朗に迷惑がかかってしまう。それだけは絶対に避けたかった。 「違います」 「斎藤さん……あなたの体から微量の睡眠薬と睡淫効果のあるものも検出されました。男性でレ◯プされた方はみんな恥ずかしくて、知られたくないと拒みます。ですが恥ずかしいことじゃないんですよ。年間に何件も発生しています。珍しいことじゃないんですよ」 「違います。レ◯プじゃありません。合意の上の行為でやりすぎました」  他の男たちのことは知らない。だけどAllyとの間には、一瞬だけつながりができたと思えた。彼と抱き合ったあの瞬間、彼を愛したと言っても過言ではないくらい強く結びついた。 「ですが」 「本当です。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。ですが、合意です」  きっぱりと告げた優希にドクターは息をつき、「そうですか」とうなずいた。 「斎藤さんがそうおっしゃるのならそうなんでしょう。こちらとしてもご本人の意思がなければどうしようもありませんので……性病などの検査もしましたが、すべて陰性でした。それはご安心ください」  それを聞いて優希はほっとした。さすがにあんなに不特定多数に襲われたのだから、なにかしらの障害が発生したらというのは怖かった。 「ご迷惑をおかけしました」  もう一度頭を下げると、ドクターは「一応ですが……」と言葉をつづけた。 「もし考えが変わったり何か思い出したりして証拠が欲しくなったら、おっしゃってください。こちらもできる限りのご協力はします」 「ありがとうございます」  最悪の事態だけは免れた、と安堵の息を吐いた。警察にも通報されず、これだけのケガで済んだのなら不幸中の幸いだ。この先大きな障害になるものもないなら、あとは傷を治せばいいだけ。 「ご家族にも連絡をしていますので、とりあえずこのまま体を治していきましょうね」 「はい」  状態が状態だからか、優希に与えられていたのは小さめの個室だった。真っ白で清潔で静かな部屋に一人きりになると、大きな溜め息が漏れた。自分一人分の呼吸だけが聞こえる静寂に、ようやく体から力が抜けていく。  Allyはどうしただろうか。黙って禄朗のそばにいてくれているだろうか。こんな手段に出るしかなかった彼の苦悩を考えると、胸が痛んだ。そして明日美と花にも。  病院に運ばれたと聞いてびっくりしただろう。怪我をした優希に、怯えていなかっただろうか。余計な心労をかけてしまった。どうしていつも自分はこんなに人に迷惑をかけることしかできないのか……歯がゆくて仕方なかった。いつだって大事な人を幸せにしたい、そう思っていただけのはずなのに。  想いは千々に乱れたけど、ベッドに横になると強い睡魔に襲われた。さっき点滴の交換に来ていたナースは、「寝るのが一番だから、休める薬も入っている」と言っていたのでそのせいもあるのだろう。意識はあっという間になくなった。  うつらうつらと目を覚ましては痛みにうめき、だけど再び睡魔に襲われるという時間を繰り返す。目を覚ますたび近くに誰もいなくて、この世で一人ぼっちのような気分だ。だれも優希を愛さず、たった一人で生きていく。そんな妄想を繰り返してはそれでもいいか、とほっとする気持ちになった。もう誰のことも傷つけたくない。  幾日かそれを繰り返し、飽きたかのように強い空腹で目を覚ました時。今までにないくらい頭がクリアになっている。体の痛みもだいぶ引いている。ナースコールを押すとすぐに看護師がやってきて、安心したように笑いかけた。 「傷の治りもいい感じですよー。この分だと退院までそんなにかからないかもしれませんね」 「そうですか」 「じゃあ、食事運んできますから!しっかり食べて早く元気になりましょう」  ベッドサイドに運ばれてきた食事の匂いを嗅ぐと、今までにないくらいの強い食欲を感じた。死にかけた優希の体が「生きたい!」と必死に叫んでいるようだ。  普段より多めの食事をとり、回復が進んでくると一人でも歩けるようになった。まだ後孔は鈍い痛みを発するけど、ほんの少し前まで動けなかったことを考えると、人の体は案外たくましいものだと感心する。  暇つぶしに売店で雑誌を買ってパラパラとめくっていたら、小さな記事が目を止めた。それは日本人写真家の個展の成功を記したものだった。写真を撮るくせに自分が撮られるのはあまり好きではない禄朗が、ぶぜんとした表情でそこにうつっている。傍らにはAllyの姿もある。この様子だと、彼にあの事件はばれていないということだろう。ほっとした。  これでいい、と優希は思った。    禄朗の成功を何より祈っている。その為にAllyの力が必要ならば、いつだって身を引く。せめて、影ながら応援していたい。望むのはそれだけだ。  一方で、優希がしっかりと覚醒してから数日たつというのに、明日美は姿を見せなかった。花にこんな姿を見せたくないからだろうか。どう説明したらいいのかわからないし、誰一人のお見舞いもない方がかえって気楽だったが、明日美にしては珍しいことだと思う。すぐにでもかけつけてきそうなものなのに。  そんなことを考えていたからだろうか。ほどなくして見舞客が訪れた。それは明日美の両親だ。 「斎藤さん」  近くに住んでいるとはいえ、あまり会う機会のなかった明日美の両親。彼らが険しい顔つきで、ベッドに横になっている優希の苗字を呼んだ。 「お義父さんにお義母さん。すみません……お見苦しいところを」  だらしないところを見られたくないと起き上がっても、彼らは病室のドアのそばに身体を固くしたまま立ち尽くしている。イスを勧めても頑なに近寄ろうとはしなかった。 「明日美と花は」 「今は私共の家に住んでいます」  口を開いたのは明日美の母だった。険しい表情は崩れない。 「体調がだいぶ良くなったと聞きましたが、明日美も花もこちらによこすつもりはありません」 「え……」  それは花に刺激を与えたくないということだろうか。困ったように笑う優希に、視線を合わせず言葉を続ける。 「もう会わせるつもりもありません。明日美にはあなたと離婚するように、と話しています」  一体何を言っているのだろうか。呆然とする彼を汚らわしそうに一瞥すると、「書類は送りますので」と続ける。 「待ってください、なんで急に……?」 「救急車で運ばれたと連絡があった時、わたしも明日美と一緒に病院に参りました。運ばれてきたあなたは意識も朦朧として全身傷だらけで……何か事件に巻き込まれたのかと明日美は震えてしまって」  そこで言葉を切る。先を口にするのも忌々しいといった具合で。 「医師から状況を伝えられた時、明日美は泣き崩れました」  父が続けた。 「どうやら性的暴行を加えられた可能性がある、と。男性なのに性的暴行なんて……あなたはそんな趣味がおありだったんですか?!」  汚らしいものを見るように、明日美の父は顔をしかめた。 「そもそも明日美があなたと結婚したいと言い出した時から、心配だったんですよ。男のくせに気持ち悪いくらい綺麗な顔をしていて、何を考えているかもわからないような……親子の縁も薄いあなたに、まともな家庭なんか築けないだろうって。予感は的中しました」  ただ放心したように、彼らの言い分を聞いていた。そんな風に思われていたなんて知らなかった。ずっと嫌われていた?最初から。 「正直明日美も婚約破棄をされたショックから立ち直ってもいなかった時期でしたし、まともな状況じゃなかった。だからあなたみたいな変な趣味を持った男につかまってしまったのかと思うと、あの時の自分たちが悔しくて」 「あの時ちゃんと止めていれば、こんなことには」  明日美の両親はいままでずっと我慢していただろうことを、口々に訴える。 「申し訳ありません」  優希はなんて言葉を返していいのかわからず、震える声で謝罪の言葉を口にした。彼らの言う通りかもしれない。両親は彼がまだ小学生のころに離婚していたし、養育に関して途中から手放されていた。学校に通えて、生活をする分の保証さえしておけばなんの問題もないと考えていた人たちだ。今はもうほぼ縁がないと言ってもいい。どこで何をしているのかもお互い知らない。さみしくないかと言われればそれは違うけど、もう諦めてしまった。  それが明日美との結婚生活にどう影響していたのか、わからない。普通の幸せな家族を知らないから。だからこんなことになってしまった? 「ご迷惑をかけてしまって申し訳ないと思っています。でも今回のことは趣味でもないですし、親とも関係ありません。本当に、ただの事故なんです」 「もういいんですよ。男に、暴行を受けるような人を花の父親としておいておけません」  言いたいことは全部言ったとばかりに、明日美の両親は背中を向けた。 「待ってください!」  ベッドから這いだすと彼らのもとへと歩んだ。だが近寄る優希を不潔で仕方ないといわんばかりに拒絶されてしまう。その怯えた表情に全てを悟った。  明日美と結婚したのは男と交じって喜ぶ変態で、まともな感性を持ち合わせていない穢れた男。それは両親の愛を受けて育っていないからどうしようもない。これ以上明日美と花を汚すような存在はもういらない、そういうことなのだ。彼らは優希を「汚らしいもの」として認識した。 「明日美と花を愛しています」  震える声で訴えた。 「それは本当のことです」  だけど優希の訴えは彼らには届いてはいないようだ。あきれたため息を吐きながら、明日美の両親はゆるりと首を振った。 「もういいです、やめましょう」 「ぼくの存在が彼女たちを傷つけるなら身を引きます。でも、大事に思っていたことは本当なんです。信じてください」 「斎藤さん」  明日美の父は憐れむように見た。 「でもあなたは花に姉妹を作ってあげられなかったんですよね」 「は……?」 「男として不能なのは、あなたが男に抱かれるのが好きだからでは?」  否、とは言えなかった。それも事実だ。  禄朗を愛して彼に抱かれて喜び、明日美と離婚しようとした。花の命を流そうとしたこともある。一緒に暮らしながら、彼女を抱けなくなっていたことをこの人たちは知っているのか。  否定できない優希にため息をつくと、吐き捨てる言葉を言い残した。 「自覚されているようですよね。汚らわしい……もうあの子たちには近寄らないでください」  伝えたいことはもうないといわんばかりに、彼らは背中を向けて病室を後にした。コツコツと彼らの心境を表す固い靴音が遠ざかっていく。  残された優希は、その場からしばらく動けなかった。こんな形で終わるなんて。暗い道を照らしてくれた明日美と花の明るい笑顔を、壊してしまったのか。彼らの言い分に何一つ反論できなかった。  小学生になる花を見届けることができなかった。この先素敵な女性になっていくのを優希は知ることができない。あの子だけは絶対に傷つけず、幸福な人生を歩ませてあげたいと願っていたのに。  だけどそれでよかったのかもしれない、と肩を落とした。自分にかかわった人間はみんな不幸になる。それならばこうやってひっそりと誰ともかかわらず生きていければ。これ以上大切な人を苦しめたくはない。  足音が聞こえなくなっても、優希はいつまでも動けないでいた。

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