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運命のいたずら⑤
明日美の両親とのあの日から、間もなくして優希の退院は決まった。明日美と花には一度も会えないままだ。
一緒に暮らしていたのに終わりはあっけなく、最後に言葉を交わしたのが何だったのか思い出せない。当たり前のように存在する日常は決して永遠でなく、思いもかけない形で終わりを迎えることを嫌というほどわかっていた。それなのに、また繰り返してしまった。
帰宅し玄関を開けると、いつもは笑い声が聞こえ賑やかだったことが嘘のようにシンと静まり、物音一つしなかった。この場所がかつてひとつの家庭だったことなど感じさせないくらい、ひっそりと薄暗い。
「ただいま」
優希の声だけが家の中にぽつりと広がっていく。そこにはもう明日美と花の気配は残っていなかった。どの部屋からも二人の荷物は一つ残らずなくなっている。ほんのわずかな私物と家具だけが取り残され、ひそやかに涙を流しているだけだった。
三人で食卓を囲んだテーブルの上には、一通の手紙が残されている。見慣た小さくて丸っこい字で書かれたそれは、明日美からだった。
「明日美……」
自分の場所だったところに座って開くと、そこには謝罪と彼女の率直な気持ちが書かれていた。「ゆうちゃん」から始まる呼びかけは、明日美の声が聞こえてくるようだ。
あの日、病院に運ばれたと連絡が来たときは心臓が止まりそうなほどびっくりしたこと。運ばれてくる優希を見てものすごく怖かったこと。朦朧としている状態なのに「暴行を受けたわけじゃない」と必死に相手をかばう姿に、昔好きな人がいるといった優希の姿が重なったこと。そして__心の奥ではまだその人を想っている、と気がついてしまったこと。「ゆうちゃんはわたしたちを愛してくれたけど、それ以上に好きな人がいるんだよね」と綴られた明日美の文字が涙で薄れていた。
初めて会った時のことを思い出す。
禄朗に捨てられ、ボロボロになって半分死んでいる状態のとき、紹介された明日美。何もかもなくしたと俯く彼をいつも励まし隣にいてくれた彼女の存在に、いつしか引きずられ、前へ足をふみだせるようになった。恋人、としてというより兄妹として。
ぽつりぽつりと互いのことを話し合えるくらいになり、優希の境遇を聞いて怒りながら泣いていた。「大丈夫だよ」と肩を抱いてくれた明日美が、ふいに漏らした告白に衝撃を受けた。明るくコロコロと笑いつらいことなんて今までなかったようにふるまい、明日美こそ結婚間近の婚約者に捨てられたのだと打ち明けてくれた時、彼女は初めて自分のために泣いた。誰にも話せなかった心の痛みを。何でもないようにふるまうことで自分を守ってきた明日美の必死さに、心を決めたのだ。
結婚して幸せになりたかったと泣く明日美の願いを叶えてあげたいと思った。それは報われない自分の代わりに救われてほしかった気持ちもあったのかもしれない。
恋として好きあっていたのか、と思うと今でもわからない。お互いに利用しあったと言っても間違いじゃないし、同情も強い愛情の一つだろう。お互いを支えあう同士のような、合わせ鏡の存在。
子供が欲しいという願いも叶えたかった。優希の代わりに、たくさんの幸せをあげたかった。だけどいつしかそれはいびつな形になり、禄朗と再び会えた時壊れた。
「花がおなかの中にやってきたときは幸せで、世界はバラ色に見えました。でも離婚したいといわれた時また捨てられるのが怖くて、ゆうちゃんの幸せを願ってあげられなかった。この先もずっとこうやって一緒に生きていきたいと欲張ってしまいました」
だけど、と明日美はつづけた。
「好きな人を想い続けるゆうちゃんと、これ以上一緒にいることは不可能だと思いました。本当は一生隣にいて守ってあげたかった。ゆうちゃんの隣でずっと幸せに暮らしたかった。でも本当にあなたを愛してしまったから。わたしだけを愛してほしいと願ってしまったから。つらい時に、そばにいられなくてごめんなさい。離れていてもゆうちゃんの幸せを祈っています。ゆうちゃん!本当に、幸せになって!!いままでありがとう」
何度も読み返して、くしゃくしゃになった手紙を握り締めながら泣いた。あんな優希のために尽くしてくれた明日美を裏切って、しあわせにするという約束さえ果たしてあげれなかった。彼との子供を産み、大事に育ててくれた明日美を大切にできなかった。いつだって、明日美じゃない誰かを選んでしまった。捨てられる痛みを、誰より知っていたはずなのに。
「う……ああっ」
声がかれて涙も出尽くした。もうどこにも力が残っていない。床にへたり込んで茫然としていたら、カーテンの外が薄明るく染まり始めていった。
新しい夜明け。新しい一日。だけど優希にはもう何もない。隙間から差し込んだ一筋の光が照らした彼には、何も残っていなかった。
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