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You're My Only Shinin' Star①

 人というのは案外たくましいものだ。  あんなに嘆き力尽き何もかも失った絶望の淵にいたけど、生きていればおなかがすくし生理的な機能は普通に稼働している。時間薬という言葉があるように、ヒリヒリとした痛みは鈍くなり涙も枯れていく。怪我が治っていく様を眺めていた時と同じく、いつまでも同じ状況でいるわけではない。自暴自棄になることも誰かに支えて欲しがることもなく、淡々と日々を送れるようになるまでは、さして時間を必要としなかった。歳を重ねることで鈍くなったのもあるのかもしれない。それはありがたい変化だ。 「大変ご迷惑をおかけしました」  療養休暇を経て出社すると、一斉に同情的な視線が集まった。 「酔っぱらいの喧嘩に巻き込まれたんだって?災難だったなあ」 「お見舞いに行っても面会謝絶ってなってるし、マジ焦ったけど退院おめでとう」  担当のドクターがとてもいい人だったらしい。優希は「もらい事故」として診断書を提出してもらい、かつ、デリケートな時期でもあったから身内以外の面会ができないよう計らってくれた。退院の直前まで気にかけてくれて、いつでも頼ってきていいから、と優しい言葉さえかけてもらえた。 「ご迷惑をおかけした分、バリバリ働かせていただきますので」  頭を下げるとパチパチと小さな拍手が送られ、ほっと息ついた。ここには自分が今まで築き上げてきたものがあって、受け入れてくれる土台がある。そのことがしみじみと嬉しかった。  たまった仕事に追われているうち、日々はせわしなく流れていく。余計なことを考える暇がないほど業務と日常に追われ、疲れて帰るとぐっすりと眠り、目が覚めると会社へ足を向けた。  今まで暮らしていたマンションは手放す。現金に換えられるものはすべて明日美と花へ振り込んだ。優希にできることは、もうそれくらいしかない。明日美は受け入れてくれたが、花には一度も会えなかった。  引っ越した先のワンルームマンションはまだ家具も入っておらず、ガランとしてとても静かだった。中古でもきれいで誰の色にも染まっていない。何もない。そう思った瞬間、驚くくらいの安堵が全身を貫いた。縛るものは何もなく、嘘偽りのない自分が手に入れた自由。これからは好きなものを好きなようにしていい。一人ぼっちな今、誰にも迷惑をかけることはない。  今まで覆っていた重たい膜がはがれていく清々しさに、優希は声をあげた。もう誰に遠慮することもなく、禄朗を好きでいられる。それは想像もしていなかった喜びだ。  結婚すると決めてからも捨てられず、ずっとしまい込んでいた大切な宝箱を開ける。少しほこりっぽくなってしまった箱の中には、昔禄朗にもらった写真がたくさん入っている。何年ぶりの再会だろう。まだ若かった二人の部屋に飾られていた彼の視界の先の景色。二人のプライベートな姿。それらをもう隠さなくていい。 「禄朗……」  どこで撮った写真だったとかその時のエピソードだとか、楽しそうに話してくれた姿を思い出しながら、一枚一枚壁に貼りつけた。これくらいは許してもらえるよな、と誰にともなく言い訳をして禄朗の見た景色に囲まれ暮らしていく。それだけでもたまらなく幸せだった。  いくつも季節が移り替わり、代わり映えのしない毎日でも生きている。自分だけの力で。自分だけの意思で。それは今まで感じたことのない充実感を伴った。  日本での個展が成功だった禄朗は世界中のあちこちを飛び回り、今ではそれなりに名の知れた写真家として活躍しているようだった。ネットや雑誌や新聞記事の中にその名前を見つけるだけで嬉しくて、切り抜いては寄せ集めていく。今までにないくらい彼がそばにいた。 「じゃあなー。お疲れ様」 「お疲れさまでした!」  同僚とあいさつを交わしながら帰路につこうとした優希に声がかかったのは、秋も深まった夕暮れのことだった。 「優希」  聞き覚えのある声に呼ばれて振り返る。そこにいたのは、夕日を受け金色の髪をキラキラと光らせた背の高い男。まさか、と心臓が嫌な音を立てる。もう会うこともないと思っていたのに……痛ましい記憶が蘇り、とっさに逃げようと背をそむけた。だが一足先にその人物が動き、腕をつかまれた。  最後に会った時にはまだ幼ささえ残っていた彼が、今は優希よりも背が高く体も大きくなっている。つかまれた腕から押さえつけられた時の痛みが蘇る。 「待って、優希逃げないでよ」 「……Ally」  通りかかる人がみんな振り返る程の美貌に磨きをかけたAllyが、そこにいた。 「優希に聞きたいことがあるんだ」 「離して……っ」 「頼むよ。話を聞いて……禄朗のことなんだ」  困ったような声は低く落ち着いている。それは冷たさを含んだ以前とは、打って変わった大人の声色だった。 「……禄朗の」  様子をうかがいながら言葉を返すと安堵して頷き、ひょいと体をかがめて優希を覗き込む。困った表情で淡く微笑むAllyに、以前の面影はなかった。ずいぶんと雰囲気が違う。油断しちゃだめだと言い聞かせながら、彼と向き合った。 「もうあんなことしないから、そんなに怯えないでよ」    震える優希に気がついたのか慌てて腕を離し、危害は与えないとアピールするように両手を上げた。よく映画などで見かける降参のポーズさえ、ヤケに絵になる。  そうは言われてもまだ恐怖は残っている。屈強な男たちに襲われる夢を今でも見て、飛び起きることもある。怯えるなというほうが無理だ。あの時味わった絶望は、忘れられるはずがない。 「ぼくが知ってることなんかなにもないよ。あれから禄朗と会ってないし、連絡も取りあってない」  ぶっきらぼうに答える優希に、Allyは小さく頷いた。昔もらった写真を飾っているだけなのに、それさえも許されないのか?俯き怯える彼にAllyは小さく息を吐き、頭を下げた。 「本当にあの時はごめん。反省してるし、もう二度としない。約束する」  おずおず視線を向けると、真剣な表情の彼の視線にかちあった。違う意味で心臓がばくりと音を立てる。引きこまれそうだ、とAllyの薄い色素の瞳から目が離せなくなった。  一度は体をつなげ、気持ちさえひとつになったと勘違いしてしまいそうな体験をした相手だ。好きでもないのに触れあう場所から通じ合い、同じ存在のように思えたあの不思議な瞬間。Allyの持つ吸引力に引きずり込まれそうだ。けれど必死に踏みとどまり、ゆるゆる頭を振った。   「わかった。でも禄朗のことを聞かれても答えられることは何もないよ。きみのほうがぼくより詳しいだろ?」 「そっか」  彼は少しだけ考え込む風にしてから、「ちょっと時間もらえるかな」と尋ねた。さすがに優希も懲りていたから、すぐに答えられなかった。彼を信用しきるほどお人よしでもないし、これも何かのたくらみなのかと勘繰ってしまう慎重さもある。彼の逡巡を悟ってか、Allyは困ったようにうなずいた。 「OK。じゃあ、公園でちょっとだけ話せる?」 「わかった」  さすがに人目のある公の場で何かをしようとは思わないだろう。なるべく賑やかな場所を選び、少しでもおかしいそぶりを見せたら逃げるか助けを呼ぼうか。そう決めて頷くと、Allyは初めて安心した笑みを浮かべた。  並んで歩きだすと彼の身長はすでに優希を追い越し、仰向かなければ顔も見られない。以前もモデルのように綺麗だと感心したけど、今はさらに大人の色気も感じさせる。 「元気だった?」 「まあ、なんとか」  なんでこんなことになっているのか理解できないまま、ぼそぼそと会話を続ける。  あの時は牙をむいた獣のようだったのに、今の彼はとても紳士的な雰囲気をまとっている。優希に向けられていた敵意も、全くというほど感じられなかった。そんな心の内を読んだAllyは、小さく息を吐いた。 「あの時は本当にごめん。謝っても許されることじゃないってわかってるけど……」 「うん」 「怪我とかした、よね……やっぱり」 「しばらく入院してた」 「そっか。本当に申し訳ないことをした……ごめん」  気持ち悪いくらいしおらしく、それはそれで何かたくらみがあるのかと訝しい。どうしたらいいかと頭を悩ましたが、考えてみれば今の優希に失うものも怖いものもない。そうか、何があっても全然平気なんだと思ったら一気に気が楽になった。  優希の会社から歩いてすぐのところに、自然豊かな公園がある。そこへ向かうことにした。  薄暮の中。母親に手を引かれた子供たちが賑やかな声を振りまきながら、帰宅の途についていく。花もよく公園で遊んでいたなとほほえましく眺めてしまう。帰り道に手をつなぎながら、つたなくも楽しかった話を聞くのはとても楽しかった。  秋は日が落ちるのが早い。ベンチを見つけて腰を掛けたころには賑やかだった公園が静けさを取り戻し、時々ランニングや犬の散歩をしている人たちが足早に通り過ぎていく。 「何か飲む?」  ベンチの近くに自動販売機を見つけると、コインを入れながら優希に声をかけた。 「優希はどれがいい?」 「いや、いいよ」 「さすがのぼくも自販機には仕込めないから、心配しないでよ」  前回の失敗を覚えている優希の不信を受け止めて、Allyは眉を落とした。 「ていっても信用ないよね。じゃあ、自分で押して」 「……ありがとう」  ガコンと大きな音がして、あたたかなコーヒーが転がり落ちてきた。両手に包み込むと、ぬくもりにほっと安堵の息をつく。お互いに飲み物で暖を取りながらベンチに腰を掛けると、犬の散歩をしているひとが通り過ぎて行った。  「禄朗のことなんだけど」と静寂を破るようにAllyは話し始めた。 「行方不明になった」 「……えっ?」  予想もしていなかった言葉にびっくりして缶を落とすと、鈍い音を立てて転がった。それをAllyが拾うとほこりをはらい、綺麗なものを手の中へ返した。 「今までだってよくあることだったんだ。ふらっといなくなって、少ししたら連絡があって、どこかに写真を撮りに行っていたり。でも今回は違う」 「違うって」 「カメラを置いていった」  Allyは両手を組みそこにあごを乗せると、ふうと息を吐きだした。とても重たい空気が広がっていく。 「その前からちょっとおかしいなってこともあったんだ。今までの写真を捨てたり、カメラに全然触らなくなったり。活動としては順調のはずなのに、どこか魂の抜けた顔をしてぼんやりとしていたり」 「禄朗が」  大事そうに抱きかかえていたカメラを置いてどこかにいくなんて考えられない。 「ほかのカメラを持って行ったとか」 「ううん。カメラは全部置いていった。だから優希なら行き先を知らないかなって」  Allyは困り切ったように、視線を向けた。 「きみなら知ってるかもしれないと思って」 「ぼくは」  全く知らなかった。禄朗がそんなに思い詰めていたことも、いなくなったことさえ。その心のうちが何を想っているのか。今の優希にはまったくわからない。 「それは……Allyのほうが詳しいだろ」  ずっとパートナーとしてやってきたのだから。禄朗の隣にいて、彼のことをよくわかっているはずの恋人はAllyであって優希じゃない。今の自分はその他の人たちと同じ、ただの他人なのだ。  だけど彼はゆるゆると首を振り淡く微笑んだ。 「そうだけど、そうとも言えない。ぼくたちはパートナーだけど恋人じゃない」 「え?なに……どういう意味……?」  言っている意味がよくわからなかった。 「じゃあ……」 「優希とのことは言ってないよ。約束だから、それは大丈夫。でももう接触しないって伝えたら禄朗はあっさり了承して、それで終わり。ぼくのこと別に好きでもなんでもなかったんだよ。わかっていたんだけどさ」  優希が一人になったころに同じくして禄朗も一人になっていた。彼は今も孤独なままどこかをさまよっているのか?誰にも助けを求められずに。 「……彼のサポートは?」  Allyという後ろ盾を無くして、どうやって活動していくのか。個展を一つ開くだけで莫大な金銭のやり取りが発生するはずだ。詳しくはわからなくても、想像がつく。 「それは続けてるよ。禄朗を愛してるからね。そうだ、これ名刺」  高級なスーツのポケットから名刺を差し出すと、優希の手にそっと乗せた。なにやら難しげな横文字の肩書が書かれている。 「アーティストは金がなきゃ活動できないし、そのために身体を売るやつも多い。ぼくを抱いていた禄朗のようにね。だからそれを廃止させたくて、芸術家の卵をサポートする仕事を立ち上げたんだ」 「そうなんだ。すごいよAlly」  あの時の彼からは想像できないくらい、大人びた。駄々っ子でしかなかった彼が、今は誰かを助けている。そのことがすごく嬉しい。 「素敵な仕事だと思う」 「ありがとう。それも全部優希とのことがあって気がついたんだ」  Allyはもう一度しっかり向き合うと、頭を下げた。 「あの時は本当に申し訳なかった。ごめんなさい」 「それはもういいよ。終わったことだから、さ」  思い出したくもない過去が違う形で動き始めていた。優希にとって災難だったものが、知らない場所で新しく芽吹き、ほかの人の手助けへ繋がっていた。それを知られたことで、充分救われた。 「禄朗のこと、もし何かわかったら連絡して」  彼は腰を上げ、眩しそうに優希へ視線を送った。  すっかり日が落ち暗くなった公園にぽつぽつとライトが灯り、優希の上に影を落とす。見上げるとそこには禄朗を欲しがっていた子供じゃなく、しっかりと自立した一人の男がいた。優希の中に流れた時間と同じくらい、Allyの中にも時は流れ変化を与えていた。 「優希とこんな形じゃない出会い方がよかった。もっと違う形で、いい関係になれるような」    痛みを押し隠して、微笑みを浮かべた。 「優希のこと、羨ましくて仕方なかったんだ」 「禄朗が、ずっと、ぼくのもの……」  言葉に出して呟くと、ほろほろと涙がこぼれおちた。一度溢れた気持ちはとめどなく優希の頬を濡らす。  もう二度と手に入らないと思っていた禄朗の気持ちは、ずっと優希のものだった。それは本当のことなんだろうか。今もそうなんだろうか。ずっと愛していると言った言葉は今も変わっていないのだろうか。優希は俺のものだろうと不敵に笑う禄朗を、いますぐ抱きしめたいと思った。  絶対に見つける、と優希は心を決める。もう二度と離さない。ひとりぼっちになんかしない。迷子になった禄朗を取り戻して、今度こそもう手を離さない。  ぼんやりと灯る街灯の下で、泣きながら優希は固く心に誓った。

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