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第16話

 心地良い温もりに包まれている感覚。  「う……ん……」  「気が付いたか?……、オイ、長谷川!」  橘の声が俺の顔の横から聞こえてきて、俺はゆっくりと聞こえた方に視線を向けると  「もう大丈夫だ。頑張ったな、偉いな」  言いながら橘はキツイほど俺を抱き締める。  俺は橘の自宅のソファーで、橘に跨って抱き締められている。  …………、夢か?俺はさっきまで田中に……。  と、ぼんやりしながら先程までの記憶を手繰り寄せると、フラッシュバックのように田中から言われた事を思い出して胃がキュゥッと絞られるような感覚に、抱き締められていた腕から逃れようともがく。  「何してる?落ち着け」  突然俺が腕の中で暴れ出した事に橘は驚き、更に抱き締め返そうとするが  「オイ、一瞬離してやれ」  長谷川さんの声と共に目の前に、ビニール袋が設置されたゴミ箱がスッと差し出された瞬間  「ゲェぇッ」  俺は、ビチャビチャと胃液を吐き出してしまう。  「大丈夫か?」  少し狼狽えながら俺の背中を擦る橘の手に安心感を覚えるが、何度か嘔吐し落ち着いた俺は、再び橘から離れようと体を動かす。  「何してる?またサブドロップになりたいのか?」  腕の中で離れようとする俺に、橘は逃すまいと腕に力を込めるが  「もう……ッ、大丈夫だから……離せ、よ」  本当はもっと抱き締められていたい。  俺が安心できる場所で、ぬるま湯に浸かっているような多幸感に包まれたい。だけど、この腕の中は違うのだ。  俺ではない誰かのものだから……。  そう思うこと、途端に寒気に襲われてカチカチと小さく歯が鳴るが、俺はグッと奥歯に力を入れて、震える指先で抱き締めてこようとする橘の胸に手をあて、お互いの間に距離を作る。  それを見ていた長谷川さんが大きく一つ溜め息を漏らして  「お前の責任だぞ、橘」  と、責めるように一言。  「……………ッ、解ってる」  橘も苦い顔で、絞り出すように呟くと  「石川君、すまない……」  胸にあてている俺の手を掴み、本当に申し訳なさそうに眉間に皺を寄せて言ってくる橘に俺は  「何……が……?」  何の事を言って、俺に謝っているのか解らなくて、戸惑いながら聞き返すと  「すまないな石川君、コイツ恋愛初心者でさ」  「長谷川ッ!」  橘よりも先に長谷川さんが俺にそう言ってきて、俺は、?が駆け巡る。  何を言っているんだ?  長谷川さんの言った台詞に、橘は大きな声で気まずそうに長谷川さんの名前を呼んで、これ以上何も言うなと暗に匂わせるが、長谷川さんはお構いなしに  「せっかく石川君から告白してくれたってのに、コイツヘタレなんだよな~?」  「お前、黙れッ!」  「黙るわけ無いだろ、お前のSubをここまで追い詰めたのは、お前の責任だろ?」  長谷川さんの厳しい物言いに、橘は何も言えなくなり押し黙る。  二人のやり取りが解らなくて、それぞれを視線で追って見るが、二人共何も言わなくなるので俺は  「何、言ってるのか解ンね~けど……、あのDomは……」  どうなったのかと聞こうとすれば、俺を抱いている橘からビリビリとDomの圧が立ち上ってくるように感じられ、俺はそれにビクリッと恐怖を覚えて口をつぐんでしまうと  「あぁ、アイツは警察に引き渡した。事後処理はこっちで引き受けてるから安心して」  俺と橘を刺激しないように、長谷川さんはその場にしゃがむと俺と視線を合わせてくれながら  「石川君、橘は好きな相手から告白された事無くてね、動揺して君を避けてただけだ」  「え?」  「……………」  長谷川さんの台詞に俺は何も言わない橘に視線を向ける。  ……………、好きな、相手?  聞き間違えかとジッと橘の顔を見詰めるが、橘は何も言わない。そんな橘に長谷川さんは再び溜め息を漏らすと  「学生時代は滅茶苦茶だったらしいけど、大学入ってからは決まった相手はいないし、プレイするSubもいないんだよな、橘?」  「……………、そうだ」  長谷川さんの言葉に、橘は短く答えただけでまた黙りを決め込む。  「と、言うわけだ石川君。恋愛初心者なんだよソイツ。だから君から告られてどう反応したら良いか解らなかった、で、合ってんだよな?」  「……………、あぁ」  気まずいのか、照れているのか、小さい声で返事をする橘から視線が反らせない。  「ソイツ、君の事が大切過ぎてさ、告られてからプレイしようものなら抱き潰しそうで怖かったらしいんだよね」  「……、長谷川、言い過ぎだぞ」  「今更、格好つけても無駄だろ?格好つけた代償がコレだぞ?」  「…………、解ってる……」  「ま、石川君そういう事だからさ、怒るなり罵るなり好きにして良いから」  よいしょ。と言いながら長谷川さんは立ち上がると、床に置いていたゴミ箱を持って  「後のフォローはお前がしろよ、僕は僕でこれから警察署に行って事情説明があるんだからな」  「………、助かる。………、長谷川、すまない」  「謝るより、お礼言えよ。貸し一つだからな」  「あぁ………」  じゃ、と言って長谷川さんは俺達に踵を返すと、部屋から出ようとして一度振り返り  「石川君、ソイツ素人童貞だから……、あ、当分使って無いから童貞に戻ってるな」  「長谷川ッ!」  ケタケタと笑いながら長谷川さんは部屋から出て行く。  残された俺と橘は無言で……。お互いに何をどう言ったら良いのか測りあぐねている。  ……………、橘も俺の事が好き?……って事で良いのか?  長谷川さんの言った事を信じると、そういう事で合っているはずだが……。  もう一度チラリと橘に視線を移すと、橘はジッと俺を見詰めていてドキリとしてしまう。  「………ッ、はぁ~。すまない石川君、長谷川の言う通りだ。私は君に告白されて、ひよったんだ」  困ったように眉を八の字にしている橘の顔に、俺は目が釘付けになる。  橘のこんな顔、初めて見た。  何も言わない俺を安心させるように、ゆっくりとした口調でポツポツと橘が喋りだす。  「最初はDom嫌いの君が珍しくて近付いたのは確かだ。それは前にも言っていたよね?私の周りにはそういう人がいなかったから……」  喋りながら橘は、抱き締めている手で俺の背中をポンポンと叩きながら  「けど徐々に私に心を開いて近付いてきてくれる君が可愛くて……ね。しかもSubだった君が私でサブドロップを脱すると知ってしまうと……もう無理だった」  言いながら橘は一度俺の髪にキスを落とすと  「君から告白されて、とても嬉しかった。これは信じてくれ、嬉しかったんだ。けれど自分に、自信が無かったんだ……」  そう言うと橘は、苦笑いしながら  「長谷川の言うように、恋愛からは当分離れていたし、まともな付き合いをしてこなかったから、何をどうすれば良いのか解らなくて、狡い言い方で君と距離を取ってしまった」  「………、お前も俺が、好きって事か?」  橘の話に堪らなくなって俺が呟くと、橘は俺と真っ直ぐに視線を合わせ  「そうだな、君が好きだよ」  優しく笑いながらそう呟いてくれる。  だが、もう一つ聞きたい事がある。  「………、あの、美鈴さんって人とはどういう関係なんだ?」  恐る恐る聞いて、緊張にゴクリと喉が鳴ってしまう。すると橘は、キョトンとした表情で  「将臣の嫁だな」  と、一言。  「………………、兄貴の、嫁?」  「あぁ、そうだな。先日の将臣の愚行を謝りに来たと言っていたが………」  そこまで言って、橘は俺の顔をジッと見詰める。  「な、んだよ……?」  「イヤ、多分……君を見に来たんだろうな……と……」  「は?俺!?」  思いもしなかった方向からの台詞に、俺は驚く。  どうして、俺が出てくるのだ?  どうしてと表情が語っていたのだろう。橘は小さく笑って  「私が大学の時から決まった相手を作らず、Subとプレイする事も無かったと長谷川も言っていただろ?」  俺は橘の台詞にコクリと頷くと  「実家からは定期的にSubの相手が送られて来ていてね、それも目撃してるから知ってるな?」  「………、それと、俺がどういう関係があるんだ?」  「美鈴もDomだ。しかも俺と将臣とも幼馴染でよく知ってる。俺が家を出てから決まった相手を側に置いて無かったのに、君がいると知ったから興味が出たみたいでね」  そこまで言って、背中を叩いていた手を止めて、一度俺をギュッと抱き締める。  「彼女はしたたかだ、将臣よりも質が悪い。だから絶対に君とは会わせたくなかった」  「………、そうか……」  真相を聞いて、俺は安堵の溜め息を吐き出す。彼女と橘には何も無かったのだ。  ホゥッ。と息を吐き出した俺に橘はキツく俺を抱き寄せると  「一番の不安は、解消されたか?」  橘は俺を抱き寄せながらも、俺の背中を優しく擦ってくれる。  俺はスリと橘の首筋に鼻筋を擦り付けると  「あぁ……」  そう答えた。すると橘は俺を抱き締めたまま立ち上がると  「そうか、じゃぁ今日はもう寝よう」  と、寝室に移動するみたいで……。  本当は抱きかかえられて移動はされたくない。俺は男だし、結構重いとも思う。だが、今はお互いがそうしたい、されたいと思っているのが解るのだ。だからあえて何も言わないが………。  「あのさ……、猫達が気になるんだが……」  ただ、どうしても気になってしかたない事は言う。  どのくらい俺はサブドロップしていたのか解らないが、愛猫達にご飯をあげていない事は確かで……。思い出してから気が気じゃなかった。  「あぁ、それなら問題無い。長谷川の家で一時保護中だ。餌も与えているから心配は無い、明日にでも君と一緒に帰れる」  「そうか……」  それを聞いて安心する。  長谷川さんには凄く迷惑をかけてるな。後日菓子折り持ってお礼に行こう。  「もう心配事は無いか?」  寝室のドアを開けながら、橘が俺に確認してくる。  ゆっくりとベッドに下ろされ、直ぐに俺の横に橘が寝そべってくると、質問の答えを待っていて……、俺は橘の顔を見ながら  「……、抱かないのか?」  と、答えを言ってみる。  「…………ッ」  俺の答えに橘は息を呑むが  「今日は止めておこう。君もサブドロップになってしまったし……、負担が大きく……」  「これ以上待たすのか?」  「ッ……、石川君……」  「サブドロップになったなら、なおの事ケアしろよ……?」  俺は言いながら橘の手を掴むと、自分の唇まで持っていき、チュッと音を立てて橘の手の甲にキスをする。ジッと橘を見詰めたままで。  「煽らないでくれ」  「ワザと煽ってんだよ、解かれよ」  そんな俺を見て、橘は  「抱き潰しそうなんだ……だから勘弁してくれないか……?」  と、弱々しく言っているが、先程から俺を見詰める目は獰猛さを増している。  「……、抱き潰せって言ってんだよ、こっちは……」  ギシリッとベッドが軋んで、俺の上に橘が覆い被さるような態勢になると  「良いんだな…………?」  「……、俺からそう言ってる……」  言い終わらないうちに橘から噛み付くようなキス。  初めて橘と口吻を交わす。さんざ頭や髪にはキスを受けていたのに、口には初めてなんて笑える。  「ん、ンゥ……ッア、……」  当たり前のように俺の口腔内に舌を滑らせてくる橘のは、俺が想像していたよりも長くて厚い。  俺の舌を絡め取り、歯列をなぞって上顎をくすぐる。その手慣れたやり方に俺は橘が口を離すと  「お前……ッ、素人童貞じゃ無いのかよ?」  なんて、先程長谷川さんが言ってた事を、少しからかいながら橘に呟くと  「はぁ……、忘れろ」  呆れたように溜め息を吐き出し、しばらく俺の顔を見詰めていた橘は  「気になるのか?」  困ったような、嬉しそうな複雑な表情でそう俺に聞いてくる。  俺は、そう言わせてしまった自分の今の顔はどういう感じなのだろうと橘を見上げながら、ふと思うが  「………、自分でもこんなに嫉妬深いなんて知らなかったわ」  今まで付き合った相手でも過去の事は気にならなかったはずだ。なのに……。  俺の台詞に、橘はもう一度唇にキスをすると、俺の上から横に移動して  「何が聞きたい?」  諦めたように俺を見詰めながらそう言って、肘をベッドの上で折りその上に自分の顔を乗せて、俺が何か聞くまで黙って待ってくれているらしい。なので俺は聞きたかった事を口にする。  「……、長谷川さんが言ってた素人童貞っていうのは?」  「私が、童貞を捨てた相手が実家から用意されたSubだったから、長谷川はそう言ってる」  「マジかよ……、じゃ、童貞を捨てたのは?」  「中学一年」  「………。いつまでプレイでSubを抱いてた?」  「正確には、大学一年の夏までだ」  「今までの恋人の人数は?」  「四人」  その台詞に俺の胸はチクリと痛む。以前橘が頑なにプレイをするSubに挿入はしないと言っていた。  俺はプレイ中に橘から挿入して欲しくて、それを断られていた時にモヤリとした感情を抱いていたのだ。それは単純に嫉妬。俺は橘にとってプレイはできるSubだが、パートナーにはなれない自分を突き付けられて、橘に抱かれていた顔も知らない人達に嫉妬していたのだ。  「最長でどのくらい付き合った?」  「……………、忘れた……、半年くらいか?」  付き合いたての高校生がする質問みたいで、俺は最終的にはおかしくなって、フフフッと笑ってしまっていた。それを見ていた橘は  「なんだ、満足したのか?」  と、俺からの質問が終わって安心したのか、少し余裕っぽく聞いてくるから  「俺とも半年くらいって、思ってる?」  なんて、意地悪な質問をしてみた。  すると橘はその質問に口元を歪め  「正直なところ、私は人の手料理が苦手でね」  と、話始める。  突然橘が何を話し始めたのか解らなかったが、言っている台詞に、え?となる。  だって俺の作った飯は食ってるから……。  「まぁ、私以外が作るならそれは人の料理なんだが、実家では決まったシェフが作っていたし、それ以外は外食が基本だった……」  「イヤ……、俺の……」  食ってるだろ……?  俺の言いたい事が解っているのか、橘は楽しそうに  「そうだな、君のは不思議と食べれたんだよ、美味しくね。だからこの先もずっと作ってくれないと困るんだが?」  「……ッ」  まるでプロポーズみたいな物言いに、俺は真っ赤になって言葉を失う。そんな俺を見て、橘は近付いてくると  「もう、良いか?そろそろ我慢の限界だ」  言いながら近付いてくる橘の顔の速度と合わせて、俺は目を閉じていく。

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