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第25話 隼一からのお返し

 SNSの件でのごたごたも、夕希がアカウントを削除することでひとまず落ち着いた。北山からは「僕が君のアカウントを見つけたせいでアカウントを消したのか?」などと勘ぐられてそれを否定するのに骨が折れた。  そんなある日、仕事から帰って自宅で文章を書いていたら、隼一から電話がかかってきた。 「――バレエ、ですか?」 『ああ。見たことある?』 「いいえ、全く」  夕希がSNSの件で落ち込んでるのを気にして隼一がバレエ鑑賞に誘ってくれたのだ。 『友人がダンサーをしているんだ。今はフランスのバレエ団にいるんだけど、日本公演に招待してくれてね』 「色んなお友達がいるんですね」 『ああ。本当は一人で行くつもりだったけど、華やかな舞台を見たら君も気分転換になると思うんだ。どう?』 「ありがとうございます、じゃあご一緒させてください。すみません、心配かけちゃって……」 『いいんだよ。以前君がお台場でのピクニックを提案してくれたお返しだ』 ――え……律儀にそんなこと思ってくれるんだ。  彼の優しさで尖っていた心がやわらかく丸くなっていく気がする。 『じゃあ再来週の金曜だから、楽しみにしていて』 「僕本当になんの知識も無いんですけど……」 『大丈夫。眠くなったら肩を貸してあげるから居眠りしてくれて構わない』 「そんなまさか。あ! 何を着て行けば? 普通に仕事帰りのスーツでいいのかな」 『ああ。普段着でいいんだよ」  電話を切って時計を見ると、記事を書きはじめてから既に二時間ほど経っていた。 「バレエかぁ。普段着でいいって言っても、隼一さんと僕じゃ普段着の概念が違うんだよなぁ」  夕希は立ち上がって凝り固まった肩や背筋をほぐすように伸びをした。寝室へ行き、クローゼットを開けて手持ちのスーツを確認する。隼一と食事するようになって近頃食費が浮くようになった。その分、高級店に行くのに恥ずかしくないよう自分的に少し高めのスーツを新調したのだ。 「スーツはこれと、ネクタイはこれでいいよね」  バレエなんて観に行ったことがないので周りの人がどんな服装なのか見当もつかない。 ――まさか本当はタキシードじゃないといけないなんてことないよね? ◇◇◇  そしてその次の金曜日、待ち合わせ場所で隼一の車に乗った。 「今日は食事の前にちょっと寄るところがあるから」  そして着いた先は銀座のテーラーだった。仕上がったスーツでも取りに行くのかと思ったら、一緒に来るよう言われて夕希もついて行く。自分的には普段量販店で買っているスーツを先日少し背伸びして百貨店で購入したつもりだった。だけど隼一のような人はこういうところでスーツを仕立てるんだなと思いながら店内の様子を眺める。赤褐色のマホガニー材で造られた壁一面の棚に、様々な布地が収められていた。 「いらっしゃいませ鷲尾様。ご来店お待ちしておりました。こちらの方が今回のお客様ですね」  隼一から一歩下がったところに控えて内装に見惚れていた夕希は急に店主に声を掛けられて驚いた。 「え――僕ですか?」 「ようこそおいでくださいました。佐伯と申します」  四十代くらいと思しきメガネの店主に挨拶され、夕希は焦って隼一を見た。 「え、隼一さん。僕こんなお店でスーツなんてとても……最近自分でも買ったばかりだし――」 「何を慌ててるんだ? この間の手作り弁当のお礼だよ。気にせず佐伯さんに任せていれば大丈夫だから安心して」 「は? 弁当って、え?」 ――何を言い出すんだ。あのお弁当だって結局材料代すら出させてくれなかったっていうのに。  納得がいかぬまま、佐伯に促されてアンティークの椅子に座らされる。 「早瀬様、まずは生地をお選びください」  結局夕希が戸惑っているうちに勝手にどんどん隼一が布地を選んでくれた。デザインについても無知な夕希が迷っていると、彼がボタンの数やポケットの形、(えり)の形状や袖の仕立て、後ろの切れ目(ベント)をどうするかなど「夕希はこれが似合うから」と全て決めてくれた。その後、佐伯に採寸をしてもらう。 「それでは一週間後までに仕上げてお待ちしております」 「急がせて悪いね。頼んだよ佐伯さん」 「鷲尾様のお願いとあれば、なんなりと」    通常であればオーダーメイドのスーツが仕上がるのには数週間から数ヶ月ほどかかる。しかし、店主の佐伯がイタリアのミラノで修行している頃から隼一は現地の顧客だった。そんな訳で、今回は特別に融通を利かせて貰えるそうだ。  普段既成品のスーツしか買ったことがなかった夕希には貴重な体験となった。今までスーツを買うとしたらサイズがなんとなく合えば――くらいにしか考えたことがない。しかしオーダーするとなると色々選択肢があって、しかもそれを自分に似合うように選ぶには個人のセンスが問われるのだと知った。 「良いのができそうで楽しみだ」 「スーツのデザイン、僕一人では何も決められないところでした」 「慣れだよ。何度かやっているうちに自分の好みがわかってくる」  そういうことならますます自分にオーダースーツは難しそうだ。だって、こんな高級店で仕立てることなんてもう二度とないだろうから。  隼一の見ていない所で佐伯にスーツの価格帯をこっそり聞いたら、あの店のスーツは自分が購入したものとは桁が一つ違ったのだ。 「ありがとうございます。でも、こんな高価なもの……」  隼一は「君がバレエを見に行くのに何を着ようかって不安そうにしてたから」となんでもないことのように言って少しだけ目を細めた。彼はいつもこうやってちょっとしたことに気づいてくれる。しかも、何かのお返しということにして夕希が受け取りにくくならないように配慮してくれるのだった。

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