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第26話 フェロモンと混乱
そして翌週、劇場に行く前にテーラーに寄って新しいスーツを着せてもらった。
青みの強いネイビーのフレスコ生地は通気性が良く涼しげで、これから夏に向けて活躍しそうだ。隼一に言われて手持ちの水色のストライプシャツを着てきたが、そのシャツとも良く合っている。鏡に映る姿は自分で言うのもなんだけど、いつもより二割り増しで格好良く見えた。しかも、オーダーで作ってもらい身体にぴったり合うスーツはこれまでにない着心地だった。
「腕が動かしやすいですね」
隼一が夕希を見て頷く。
「だろ? 佐伯さんのスーツの良いところだ」
「ありがとうございます。よくお似合いですよ」
佐伯に笑顔で見送られて二人は店を出た。
◇
新しいスーツを着たまま車に戻り、シートベルトをする前に隼一が夕希に細長い箱を手渡した。
「はい、これ」
「え? まだ何かあるんですか?」
もらってばかりで恐縮し戸惑っていると、彼が夕希を急かした。
「ほら、開けて。開演時間に間に合わなくなるよ」
「あ、はい!」
急いで包装紙を外して箱を開けると、そこにはモネの絵画を思わせるようなコバルトブルーの生地にレモンイエローのペイズリー柄のネクタイが入っていた。
「わあ! 綺麗……」
「気に入った?」
「素敵ですね。これ、僕に?」
「もちろん。ちょっと失礼」
そう言って隼一は夕希のネクタイを解いていく。
「あ、自分でできますよ!」
「いいから」
人にネクタイを締めて貰うことなんて滅多にないので、ちょっと気恥ずかしかった。駐車場に人影はなく、静かな車内に衣擦れの音だけが響く。穏やかな表情の彼が、大きな手で器用にネクタイを結ぶのを見ているのは不思議な気分だった。彼からいつもと少し違うサンダルウッドのような優しく甘い香りがする。夕希はぼうっとして口をすべらせた。
「いい匂い……」
「え?」
彼に聞き返されてハッとする。
「あ――僕、何言ってるんだろう」
「なんの匂い?」
不思議な光を帯びたヘーゼルの瞳が夕希をじっと見つめる。彼は答えがわかっていてわざと言わせようとしている――。アルファのフェロモンに抗いきれず夕希は答えた。
「隼一さんの香り……」
「そう、うれしいな。俺も君の香りが好き」
彼はただ香りが好きと言っただけなのに、それを聞いた瞬間夕希の心臓が跳ねて体の芯が熱くなる。
「隼一さん――……」
「好きでたまらないんだ」
彼は低くつぶやきながら夕希の両肩にそっと手を掛けた。品よく整った顔が近寄って来る。
彼は夕希の耳の後ろ辺りに鼻先が触れるほど近づいて、深く息を吸い込んだ。身体は痺れたように動かなくなり、耳鳴りがしてくる。彼の甘い匂いがひときわ濃くなり、めまいを感じて夕希は目を閉じた。彼の吐息がかかった頬が熱い。
――抱きしめてキスして欲しい……。
すると羽がかすめるくらいに軽く、隼一の唇が頬に触れた。
唇にも――と思った瞬間彼の声が聞こえた。
「さあ、できたよ」
その一言で夕希は現実に引き戻され目を開けた。彼はシートに背を預け、既にステアリングを握っていた。自分の首元を見下ろすと、ネクタイは綺麗に結ばれていた。
「すごく似合ってる。さあ行こう」
「あ……ありがとうございます……」
――僕、今なんて考えた?
彼にキスして欲しいだなんて、自分の浅ましい願望に驚いて口元を押さえた。うしろめたさから激しく脈打つ心臓の音をかき消すようにエンジンが咆哮し、車が駐車場を出た。
――隼一さんのことが好きだ。惹かれるのは彼のフェロモンのせいだって思いたいだけで、本当はもう彼のことが好きになってる。
夕希は面と向かって好きと言われた経験がほとんど無かった。女性と付き合おうとしたこともあったけど、結局うまくいかなかった。だから、近くで目を見て「好き」と言われただけで心が乱された。
――でも、彼が好きなのは匂いであって、僕に対して特別な感情を抱いているわけじゃない。今のキスも意味なんてない。
彼が今運転中で、いやらしく火照っているであろう自分の顔を見られないで済むことが救いだった。
こういうことになるからアルファに近づくのが嫌だった。だけど、これは北山からネックガードを貰ったときのような不快感とは全然違う――。
その後劇場で見たバレエは『ジゼル』という演目だった。村娘ジゼルが青年アルブレヒトと恋に落ちる。しかし彼が実は貴族の息子で、婚約者までいると知りジゼルはショックで死んでしまう。その後、アルブレヒトはジゼルの墓に現れる。そして精霊となったジゼルは彼の愛が本物であったと知るのだ。
初めて目にする|荘厳《そうごん》な舞台美術や繊細な衣装は素晴らしかった。ダンサーたちの鍛え上げられた肉体美と、一糸乱れぬ群舞は素人目にも圧倒されるものがあった。しかし、夕希は先程の隼一の香り にあてられてしまったようだ。おかげで公演中もなんとなくずっとふわふわした気分で集中しきれなかった。
「どうだった? 居眠りはしなかったみたいだけど」
劇場を出たところで隼一が夕希の顔を覗き込む。
「とても優雅で感動しました。最後は悲しい結末でしたけど……」
「ごめん、演目がジゼルだとは思ってなかったんだ。海賊かドン・キ・ホーテなら良かったんだけど」
「いえ、とっても綺麗でしたよ」
夕希はなんとか作り笑いを浮かべた。しかし彼に体調の変化を隠すことは出来なかった。
「大丈夫か? なんだか疲れているみたいだな」
「すみません。なんだか……ちょっと頭が、ふらついて」
「なに、それじゃあ食事はやめてすぐに帰ろう」
彼が背中に腕を回して身体を支えてくれた。
「ごめんなさい。初めてのことばかりで緊張したせいだと思います。ほんの少し気分が悪いだけなんです」
「気づかなくて悪かった、無理させるつもりじゃなかったのに」
「いえ、本当に楽しかったんです、僕……」
「しぃっ。喋らなくていいから」
そしてそのまま彼に抱えられるようにして車に乗せられた。
「寝ていて。着いたら起こすから」
夕希は素直に目を瞑った。
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