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第40話 悪夢
その夜夕希は夢を見た。
いつも見る悪夢――高校時代の嫌な思い出のワンシーンだ。夕希は教室前の廊下で立ち尽くし、自分の上履きのつま先を見つめている。
しかし今夜はいつもとは聞こえる声が違った。
『極度のストレスが嗅覚異常を引き起こすんだ』
――え? この声って……もしかして礼央さん?
いつも夢の中では身体がすくんで動かない。なのでずっと足元を見ているしかないのに、なぜか今日は教室を覗き込むことができた。しかしドアの中は教室ではなく、先日行ったフレンチレストランの個室だった。薄暗い室内に、白いテーブルカバー。そこに隼一、礼央、赤ちゃんを抱っこした美耶が座っている。
『オメガの発情フェロモンが鋤鼻器官を刺激し、能力を解放する』
礼央がそう言うと、美耶がそれに答えた。
『それならちょうどいい。夕希くんはオメガだから』
『発情したオメガが必要なんだ』と礼央が言うと、隼一が尋ねた。
『オメガなら誰でもいいのか?』
『もちろん、誰でも構わない。フェロモンを出すオメガなら』
『そうか、それなら良かった。俺は一夜を共にする相手には困っていないんでね』
――え? 誰でも、構わない? 相手には困ってない……?
すると美耶の抱っこしている赤ちゃんが泣き出した。あまりにもその声が大きいので、大人の会話が聞こえなくなった。
――隼一さん、なんて言ってるの?
夕希は身を乗り出してなんとか隼一の声を聞こうとした。だけど、甲高い泣き声が部屋中に響いて何も聞こえない。すると、さっきまで赤ちゃんをあやしていた美耶が顔を上げた。
――兄さん――!?
なぜか、赤ちゃんを抱っこしているのは美耶じゃなくて夕希の兄に代わっていた。そしてその横に座っていた礼央は夕希の母に、隼一は北山に代わっている。兄の抱いた赤ちゃんが泣きわめく中、母が夕希の方を見て叫んだ。
『オメガのあなたは、結婚してアルファの子を産むのよ!』
◇
そこで目が覚めた。夕希は全身汗だくだった。
夢の中で聞いた言葉は、目が覚めてなお夕希を動揺させていた。それは、自分で薄々気づいていながら深く考えないようにしていたことだった。
「誰でもいい……オメガなら、誰でも……」
今までずっと、自分が無理やり誘惑して彼と身体を重ねたことを後悔していた。夕希と触れ合って楽しそうにしている彼を見る度に後ろめたかった。
だけど、それは夕希の勝手な思い上がりだった……。
「僕じゃなくてもいいんだ。彼は、相手には困っていない……彼と寝たいオメガなんかいくらでもいる……」
――彼は礼央さんから聞いて最初からオメガと寝る目的で近づいた。嗅覚を取り戻すために、オメガが必要だっただけ。だからあのとき僕のおかげだって言ったんだ……。
隼一は夕希がベータだろうがオメガだろうが気にしないと言ったけど、そんなのは嘘だ。
「僕のことを見てくれてたわけじゃない。ただオメガが必要だっただけ――」
なんで彼が自分のことを理解してくれる特別なアルファだなんて思い込んだんだろう。ずっと前からわかってたはずなのに。彼らはオメガを利用するために傍に置いておきたがる、それだけだ。
ここまでアルファを頼らずにやってきて、どうして約束の二十八歳を目前にまた変な期待をしてしまったんだろう。ずっと騙されないようにと自分を守ってきたつもりだったのに悔しい――。
はじめて隼一に声を掛けられた時も、能力を買われてゴーストライターを依頼されたと思い込んだ。だけど、そうじゃなかった。単にオメガという性を買われただけだったんだ。
夕希は先日観に行ったバレエを思い出していた。
村娘ジゼルは恋した貴族に騙されていたのを知り死んでしまう。夕希の開きかけた心もジゼルのように失意のうちに閉ざされた。
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