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第39話 すれ違う二人の思惑

 それからというものの、タガが外れたように隼一は夕希を甘やかし始めた。これまでもまめに車で送迎をしてくれていたが、乗るときにドアまで開けられてさすがに「それはやめて」とお願いした。  外食するときもエスコートの仕方が今までと違って、周りの人から見てこんな平凡な男がなぜこのような扱いを受けているのか? と思われそうで恥ずかしい。  彼の家に居る時はほとんど常時身体のどこかが触れていないと気がすまないようでぴったりはりつかれる。彼曰くそれでストレスが軽減し、徐々に匂いが戻る時間が長くなってきているそうだ。真偽の程は確かではない。  文章を書くのには非常に邪魔だが、近々ここに来られなくなる事実を隠している後ろめたさから、何も言えなかった。  そんなわけで、最近の隼一は今までになく絶好調で生き生きとしていた。嗅覚を失ってから夕希と会う前まで自宅にこもってろくに食事もせずにいたなんて想像もつかない程、エネルギッシュに活動し始めた。  味の判断が出来なくなってしばらく控えていたテレビ出演も再開し、たまに二人でテレビを見ているときに彼の顔が映って驚くということもあった。  夕希が仕事の日はプライベートジェットで国内外問わず、あちこちに足を伸ばしている。彼はその都度現地で食材を買ってきてくれたり、その他にもお土産として色々な物を買ってきてくれた。ネックガードこそ贈られなかったけれど、旅先で買った高価な洋服やバッグやお揃いのキーケース(もちろん彼の自宅の鍵入り)を次から次へとプレゼントされた。  受け取らなければキスの時間を三倍に増やすと言われたので、夕希は渋々受け取った。  彼に優しくされればされるほど、夕希の罪悪感はつのっていった。彼とする五分間のキスに感じて身体が反応し「もっと」と思ってしまう度、自分のずるさにうんざりする。  今なら美耶に指摘された「夕希が心の中でついている嘘」がなんだったのかわかる。蓋をして気付かぬふりをしていた魅力的なアルファ男性――つまり隼一への「触れたい、触れられたい」という願望だ。 ――でも発情フェロモンを利用してその願望を叶えるなんて卑怯すぎる。  夕希は今やネックガードを送りつけてきた北山を責めることはできなかった。更に言えば、高校時代に夕希に対して「ヤッたら捨てる」と言ったアルファの同級生のことさえも責める資格が無いような気がした。  見合いを控えている身で他の男性と寝るなんて間違いだった。たとえ他のアルファのものになるのが嫌だったという理由があっても――。だって隼一にはそんな夕希の事情は関係が無いのだから。  夕希が悶々と考えている間、彼は隣で夕希の肩を抱きながら古いサスペンス映画を見ていた。今夜は一本記事を書き上げた後、リビングでカヴァを飲んで寛いでいる。カヴァとはスペインのカタルーニャ地方で生産されているスパークリングワインで、今飲んでいるのは先日隼一がバルセロナ土産として買ってきたものだ。味覚が戻り、最近は彼もお酒やコーヒーを美味しそうに飲んでいる。 「ねえ、夕希」 「はい」 「宝石なら何が好き?」 「宝石? 特にないですけど」    なんの脈絡もなくいきなり聞かれて一体何なのかと首をひねる。  ――あ、わかったぞ。きっと中東かインドかアフリカか知らないけれど、どこか宝石の産地にでも行くんだな。 「じゃあさ、強いて言うなら何色? 何色の石が好き?」 「ですから僕、石の色になんて興味無いので」  下手なことを言ったら何か買って来ようとするだろうから、うかつなことは言えない。すると彼は夕希の手を取って指を撫でさすった。 「じゃあ指輪のサイズ教えて」 「指輪なんて付ける習慣ないし知りません!」  隼一は呆れたというように肩をすくめる。 「はぁ、全く欲が無いよね君は……」 「男がこの宝石が好きあの宝石が好きなんて言ってたらおかしいでしょう」 「え、なんで男が宝石好きじゃだめなの? 頭が固いな夕希は」 「いきなりなんなんですか。ケンカ売ってます?」 「そんなわけないだろ、怒るなよ。それより今日はまだキスしてもらってないよ」  隼一が夕希の顎を持ち上げた。実を言うとそのことには気づいていたけど、夕希は密かにこのまま忘れてくれないかな、なんて思っていたのだった。 「でも最近鼻の調子も良いみたいですし、毎日キスしなくてもいいんじゃないですか?」 「やれやれ、本当に冷たいよね君って。次の発情期が待ち遠しいよ」 ――ごめんなさい。そのときには僕、もうここに居ないです。 「ほら、それ貸して」 「はい……」  夕希が左手を差し出すと彼が勝手に腕時計のタイマーを五分にセットする。夕希がおもちゃみたいな安物の腕時計を付けていたら彼が「仕事の連絡に必要だから」とスマートウォッチを買ってくれたのだ。  一秒でも惜しいというように彼の大きな両手が夕希の頭を包み、唇をついばまれる。開かされた口の中に侵入してきた彼の舌は、土を思わせるカヴァの独特な香りに染まっていた。お互いの唾液が混じり合い、それを飲み込む彼の喉の音を聞く度、自分が少しずつ食べられているような感じがする。  こうやって時間を計ってキスしてみると五分のキスは長いようで短い。最初の一分くらいまでは、恥ずかしくてまだ終わらないのかと思う。だけどその後キスに夢中になってしまい、終了を知らせるタイマーが鳴ってみると「もう終わりか」と内心落胆するのだ。  ピピピピ……  無機質なタイマーの音に、彼がそっと唇を離す。少し掠れた甘い声で彼が夕希の耳元に囁いた。 「今夜こそ俺の部屋で寝てくれる?」 「いいえ……お断りです」 「ちっ、引っかからなかったか」 「何度言っても同じですよ」 「いいや、俺は諦めないね」  最近ここに泊まる度、彼はこうやってふざけて誘ってくるのだ。夕希は胸の奥でくすぶる欲望を押し隠し、澄ました態度でグラスをキッチンに片付けた。 「おやすみなさい」 「おやすみ夕希」

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