55 / 62
第55話 我慢の限界
発情期が終わってから、夕希は北山の家で過ごすことを余儀なくされていた。コラムの仕事を辞めてしまってから、何もすることがないのがわかっているため断る口実が無かったのだ。
美耶と別れて帰宅し合鍵で部屋に入ると、北山が誰かと電話で話している声が廊下まで聞こえてきた。その口ぶりから、また夕希の父の会社への出資をどうにかしろと言っているのがわかった。
――本当に最低……。
このままこんな人に媚び続ける必要はあるのだろうか。
夕希は一つ深呼吸をし、リビングのドアを開けた。するとスマホを耳に当てた北山が振り返ってこちらを見た。彼はちょっと焦った様子で、早口になって会話を終えようとした。
「あ、えっとじゃあ頼んだよ。人が来たから、また」
そう言って彼は通話を切った。そして何事もなかったかのように夕希に笑顔を見せた。
「なんだ、早かったね。もう少し遅くなると思っていたよ。連絡くれたら迎えに行ったのに」
「会ってた方がお子さんをベビーシッターに預けていたので早めに帰ったんです」
「そうか、お子さん想いの良い人だね。で? どうだった。ケーキは美味しかった?」
「はい。それより友宏さんこそ、今日はもうお仕事終わりなんですか?」
「ああ、ちょっと用事があってね」
夕希は彼を睨みつけた。すると彼は夕希のただ事ではない雰囲気を察したのか、背中を押してソファへ掛けるように勧めてきた。
「ほら、座って。夕食はどうする? 外へ食べに行こうか」
「結構です。僕、お腹いっぱいなので」
「そうか」
「友宏さん。さっきのお話しですけど」
「え? さっきのって?」
「しらばっくれないで下さい。僕の父の会社への出資をやめさせる気なんですよね」
北山は隠しきれないと悟って数秒間目を閉じた。ため息をついて、目を開ける。その顔から笑顔は消えていた。
「盗み聞きかい? お行儀が悪いね」
「帰ってきたら、聞こえただけです。それより答えて下さい。どういうことなんです? そんなことして、僕があなたと寝るとでも思ったんですか?」
すると彼はそれを鼻で笑った。そして僕の顎を持ち上げて言う。
「君の聞き分けが悪いせいだろう? 僕はね、出世がかかってるんだ。結婚式まで待っていられないんだよ。早く子どもを産んでもらわないと困るんだ!」
「は……?」
「大体、二十八歳まで待てだの、誕生日には会えないだの、好き放題やらせてやってるのに感謝もせずに文句ばかりよく言えるな!?」
普段冷静な彼が急に激昂して大声を出した。目は血走り、こめかみには青筋が見える。
「しかもやっと会えたと思ったら今度は結婚式まで触らせないだと? ふざけるなよ。何様のつもりだ? こんなに待たせておいてフラフラと、仕事を始めただの、辞めるだの。オメガは気楽でいいなぁ? 夫が必死で神経すり減らしながら働いているっていうのに、お遊びで仕事してすぐに辞めて。そうかと思えばオメガの奥様とアフタヌーンティーだ? はっ! 優雅なことだ」
「そんな……」
必死で仕事を探して働いていたのは夕希も同じだ。
「遊びなんかじゃありません。僕、またちゃんと仕事するつもりです。今日会った方に紹介してもらって――」
「仕事、仕事、仕事! 夕希、前にも言っただろう? 君に仕事は必要ない。子どもを産むのが君の仕事なんだ」
「子どもを産むのが仕事……? 僕は――オメガはアルファの奴隷じゃない」
夕希はたまらずに言い返した。すると北山の目が怒りでギラリと光った。
「いい加減に自分の立場をわきまえろよ!」
罵声と共に、左頬でパンッと乾いた音がした。
「痛っ……」
平手打ちされたはずみでソファに倒れかけたところ、後頭部の髪の毛を掴まれ上を向かされる。彼が至近距離でこちらを睨みつけた。アルファの攻撃的で不快な匂いが鼻をつく。
「お前の仕事は外で働くことじゃない。僕の、子どもを、産むことだ」
「や……やめて……」
――なんだよ、この人。性格悪いとは思ってたけど、暴力まで振るうなんて。
アルファに凄まれて恐ろしさは感じた。しかし、夕希はこれ以上自分を押し殺して従順になるつもりはなかった。ひるむことなく彼の目を睨み返す。
「わかったか?」
「嫌だ……あなたの指図はもう受けない……!」
「自分の立場がわかってないようだな。父親の会社がどうなってもいいのか?」
――父の会社なんてもう知るもんか。僕は父の道具じゃないんだ。
するとその時、北山のスマホが震えて着信音が鳴り響いた。それに気を取られた一瞬のすきをついて、夕希は彼の手を逃れ廊下へ向かう。北山が夕希を追うか電話を取るか迷っているうちに、靴を履いて外に飛び出した。
ともだちにシェアしよう!