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第56話 αに甘える勇気

 財布さえあれば電車で実家へ帰れたのに、バッグごと北山の部屋に置いてきてしまった。だけどあそこにまた戻る気にはなれない。スマホだけはポケットに入れてあったのが救いだ。 「どうしよう……」  両親も兄も、夕希の結婚を心待ちにしているのにこんな騒ぎを起こしたなんて言えない。本当に出資を止められてしまうだろうか。父さん、怒るだろうな。  既に時刻は十九時を回っており、辺りは薄暗かった。夕希は歩いていて目についた公園のベンチに腰掛ける。  さっきまで会っていた美耶に連絡しようかとも考えた。だけど、朔くんが待っていると急いで帰ったのに、こんな時間に電話したら迷惑だろう。 ――隼一さんに連絡しちゃ……だめだよね。  夕希はスマホの電話帳を開く。彼のことはあの日以来着信拒否し、メールやSNS等もすべてブロックしていた。それなのに今更こちらから連絡するなんて都合が良すぎる。  しかしそれと同時に「もっと甘え上手にならなきゃダメだよ」という美耶の言葉が頭をよぎった。 ――甘え上手か……。どうせ意地を張っても上手くいかなかったんだ。恥を覚悟で隼一さんに当たって砕けてみようか――……。  誕生日のとき、彼は船の上で夕希に「俺にもっと頼って欲しい」と言っていた。夕希の態度に怒っていてもうそんなのは過去のことだと言われるかもしれない。だけど、許してもらえるまで何度でも謝ろう。それしかない。 ――そうだ。オメガの男は諦めない。せめて彼に謝って、好きだって伝えたい――。  夕希は着信拒否もブロックも全て解除した。そして、震える指で彼の電話番号を表示し通話ボタンを押した。スマホを耳に押し当て、呼び出し音が鳴るのを心臓が破裂しそうな思いで待つ。五回……六回……七回……コール音が虚しく響き、留守番電話サービスに繋がったので通話終了ボタンを押した。 「出なかった……」  がっかりしたけど、彼が電話に出てくれなくて当然だ。今までこっちが着信拒否していたのだから。緊張しすぎて手に汗をかいていた。夕希はベンチの背もたれに身体を預けた。  しばらく迷った後、やっぱり兄に連絡しようともう一度スマホを手にとった。そのとき端末が震えて甲高い着信音が響いた。びっくりして画面を見る。  北山からの着信だ。あれからメッセージのプッシュ通知で「どこにいる」「帰って来なさい」「怒ってないよ」と連続で届いてるのはわかっていた。だけど、既読が付くのが嫌でメッセージを開くことはしなかった。彼は夕希が財布を持っていないのを知っていて、おそらくすぐに帰ってくると思っているのだろう。夕希はその電話には出なかった。  辺りはすっかり暗くなり、街灯と近隣マンションの明かりが周囲を照らしていた。時おりランニングや犬の散歩をする人が通り過ぎていくだけで公園の中は静かだった。周囲は明るいし心細くなる要素は無い。少し歩けば駅の周辺は賑やかなエリアだし、治安も良い。皆この明かりのどこかに帰るべき場所があるのに、夕希だけが誰からも歓迎されていない他所者だった。  北山が求めているのは夕希自身ではなく、子どもを産む能力を有するオメガだ。セックスを拒むオメガなど必要とされていない。  そしてまた電話がかかってきた。 ――しつこいな。  夕希はどうせ北山だろうといらつきながら画面をチラッと見た。その相手に驚いて今度は通話ボタンを押した。 「もしもし!」 『……夕希なのか?』 「はい……あの、すみません。急に連絡して……隼一さん」 『何の用だ?』  わかっていたけど、彼の声は夕希からの電話を歓迎しているとは言えないものだった。低くて、不機嫌そうな声。この声音を聞いただけで、身がすくんで今から彼に言おうとしていたことをやめようかと思ってしまう。 「あの、あの――ごめんなさい!」 『……なんのことだ』 「誕生日のとき、僕酷い勘違いをしてて……隼一さんに失礼な態度を取ってごめんなさい」 『まさか今更謝るために電話してきたのか? 他に用が無いなら切るぞ。忙しいんだ』 「あ、待って! 待ってください」  引き止めたものの、夕希はなんと言っていいかわからなかった。ただ久しぶりに彼の声を聞き、懐かしさと寂しさで痛いくらいに胸が締め付けられる。今すぐ彼に会いたい――。  自ら全てを台無しにしておいて、今更彼に助けてもらおうだなんて虫が良いいのはわかってる。だけどそれでも、もう自分の気持を取りつくろいたくない。頼りたいと思える相手は彼しかいない。 「隼一さんに会いたいです……。僕、今困っていて――。助けてください隼一さん」  数秒の沈黙の後、ため息が聞こえた。 『今どこにいる?』 「えっと……二子玉川駅の近くの公園です」 『公園? 何をしてるんだ? まあいい。迎えに行く』 「来てくれるの……?」 『来て欲しいんじゃないのか?』  現在地の地図を送れと言われて通話が切られた。夕希はすぐに位置情報を送信した。スマホを握る手は指先が冷たく、小刻みに震えていた。 ――来てくれるんだ……隼一さん、僕のこと怒ってるんじゃないの?  自分で彼に電話しておきながら、彼がすぐに迎えに来てくれると言ったことに夕希は驚いていた。

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