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 楽しい時間は、あっという間だ。  カットが終わると、深雪がドリップコーヒーを出してくれた。たっぷりの砂糖とミルクを入れた薫のおかげで、和真も見栄を張らずに済む。香ばしいコーヒーの香りと、甘みを帯びた風味が心地良かった。  しばらく三人で談笑して。薫はまだ仕事が有ると言うし、和真は客として帰ることになった。  店の外はいつも見る通りで、人の往来も有り、現実に戻ったという気持ちになる。薫に髪を切ってもらったのは全部夢だったんじゃないか、と店を振り返ると、ガラスの向こうで薫が手を振っていた。その柔らかな笑顔に、へにゃ、と和真も顔を緩ませる。  ガラスにうっすらと写り込む自分の姿は、イケメンのそれに見えて。上機嫌で帰路に着いた。  その時、気付く。  こんなに近くまで来ているのに、バー『ジョー』に行かないのか、と。  今日は休みだ。行けば男が捕まるかもしれない。セックスもできるかも。あそこでなくても、あの通りにはいくらでも店もある。今夜は寂しく過ごさなくて済むかもしれないし、性欲も処理できるのに。  そう考えても、和真はなんとなくそちらに行く気がしなかった。  一体自分の身に何が起こっているのだろう。考えてもよくわからず、歩いているうちに、だんだんと心が沈んできた。  楽しい時間はあっという間。ひとりになると、先ほどまでの楽しさの反動なのか、妙に寂しさが強くなる。もっと若かった頃はそれが嫌で、一晩に何人もの男と寝たこともあったけれど。  寂しさを埋める為にセックスする気が不思議と起きない。いや、正確にはあるのだけれど。  不意に薫の微笑みを思い出して、和真は首を振った。  あんな優しい人を、そういう目で見るのはどうにも邪悪のような気がして。けれど、他の誰ともセックスがしたいという気にはならず、何故かしたいと思うのは薫とだった。 「……ああ~~どうしよ、俺、ホント、あかん気がしてきた……」  これが恋、なのだろうか? 未だにそれが何なのかわからない。今すぐ美容室に帰って話を続けたいような、あるいは隣の部屋へ遊びに行きたいような。しかしそれは薫にとって迷惑かもしれないし、やたら接近すると重くて鬱陶しいと思われるかもしれないし。  悶々と悩みながら歩いているうちに、寂しさは募っていく。  冬の風は冷たくて、先ほどまでの胸の温かさまで奪うようだ。楽しいことを思い出せなくなると、心の中が寂しいでいっぱいになる。悪い夢で目覚めた夜中のような、不安な気持ちが背中のほうからざわざわと這いあがってくる。それが嫌だから、たくさん逃げた。たくさん馬鹿なことをした。逃げても忘れようとしても、それらはちっとも和真の中から無くならなかったけれど。 「……ん」  とぼとぼ街を歩いているうちに、いつの間にか先日の雑貨屋まで来ていた。何気なく視線をやって、和真は目を見開き、店先へと近付く。  ワゴンセールだ。大量の雑貨が投げ込まれ、半額と札が書かれているそこに、黒いヒツジがひっくり返っていた。 「そっか、いつも一緒だったのに、片方だけ俺が買っちゃったから……」  事実かはわからない。それでも、たくさんの雑貨に紛れるヒツジを見て、どうしてだか胸が痛んだ。  自分のせいで、このヒツジは片割れから引きはがされ、「いらない子」になってしまったのではないか、と。 「…………」  静かに、そっとヒツジを手に取る。黒い顔をした、薫の部屋にいたのと同じヒツジは穏やかに目を伏せ、微笑んでいた。 「……うちに来る?」  和真がそう尋ねたって、答えが有るわけもないけれど。苦笑して、和真はヒツジを連れてレジへと向かった。 「よく考えたら。薫さんとお揃いのヒツジを買っちゃったことになるな……」  帰宅して。そのまま一日をいつも通りに終え、和真はヒツジを連れて布団へ潜った。抱いて眠ろうと考えたところで、はたと気付く。 「俺、だいぶ気持ち悪いことしてるかな……」  隣人の持っているぬいぐるみと同じものを購入し、抱いて寝ようとしている。頭の中のシノが「だいぶ重くて気持ち悪いですよ」と素っ気なく言うのが聞こえてくるようだ。  和真は少し悩んで、「ま、いっか」とヒツジをぎゅっと抱きしめる。柔らかくて肌触りのいいそれは、抱き枕にするのにもちょうど良さそうだ。  と、枕元に置いたスマホが鳴る。画面を見ると、和真の送った感謝のメッセージへ、薫から返事が来ていた。 『こちらこそ、和真君に喜んでもらえて嬉しかったよ。私も深雪さんも和真君のことなら大歓迎だから、また髪を切りたかったらいつでも言ってね。ああでも、他に通ってるところがあるなら、無理しなくて大丈夫だよ』  もちろん、和真はできることならこれからも、薫に切ってもらいたい。嬉しくなって、『またお願いしたいです!』と素直に返事をし、それから自然と笑顔になっている自分に気付いた。  いやいや、おかしい。こんな自分はおかしい。絶対に。今までこんなこと、無かったのに。  まさか本当に。いやいや、そんなはずはない。だってこれまで一度も恋なんてしていないのだから。  和真はそう考えて首を振り、そしてある考えに至って、胸が痛んだ。  もし、何かの拍子に自分の素性がバレたり。薫さんに嫌われたりして、もう会えなくなったら。  想像するだけで、背筋まで寒くなるようだ。和真はヒツジに抱き潰す勢いでしがみつき、布団に潜った。  それこそが特別な人であるということを認められないまま、日々はただ、静かに流れていく。  

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