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 高坂シノは、学生時代に「鋼のメンタル」と言われた男である。  大人しい性格であるために、子どもの頃からからかわれるだの無視されるだの、いじめ紙一重の状況に陥ったことはあった。その時も、シノのほうが徹底的にその状況を無視あるいは楽しんだがために、シノに悪戯したほうが根負けしたのであった。  そして彼は大学では心理学を学び、カウンセラーの資格もあと少しというところまでいっていた。彼がその道を選ばず、保険会社の一般社員となったのはひとえに、仕事として他人の悩み相談へ付き合いたくなかったから、だった。  というわけで、彼は今。  初対面のリンとふたり、ベンチに取り残されて、無言の時間が流れても平気な顔をしていた。  シノは人間観察も趣味のひとつである。ショッピングモールを歩く人々の姿を見ているだけで、随分と時間は潰せる。わざわざ自分からリンに話す用事もないため、シノは一言も発さないまま、のんびりと過ごしていた。  そういう意味では、和真の言っていたことは間違っていない。シノは、この状況を楽しんでいたのだった。 「遅いねー、薫と和真~」  リンはつまらなそうに脚をプラプラさせていたけれど、やがてシノに声をかけてきた。  シノはといえば、待つのは慣れている。「そうですねえ」と頷いて、道行く人の観察を続ける。と、リンがずずいと身を寄せてきた。 「ね、ね、シノ」 「はい、なんでしょう?」 「和真からボクのこと、なんか聞いてない?」 「なんか、というと……?」 「んと、ボクの悪口とか……不満とか、陰口とか、……悪口とか!」  概ね全て悪口である。シノがリンの顔を見ると、彼は随分と真剣そうな表情を浮かべている。シノは少し考えて、首を振った。 「いえ、あなたのことを少しは聞いていますけど、悪口の類は耳にしてないですね」 「ボクのこと、なんて言ってたの?」 「そうですねえ。付き合っていたけれど、自分のせいでクリスマスにフラれた、とは」 「それだけ? ボクのこと悪く言ったりとか、良く言ったりとか、してなかった?」  シノはその質問に答えるのはひとまず控えて、代わりに質問を返した。 「それを聞いて、リンさんはどうなさるおつもりなんです?」 「どうって……どうも、しないけど」  リンは軽く口をすぼめて、シノから身体を離した。拗ねた子供のように床を見ながら、脚をプラプラさせている。 「……アイツさ、ボクに謝りもしなかったんだよ」 「そうなんですね」 「だから、……ホントはボクのこと、好きじゃなかったのかなーって。恋人になるっていったって、他の男と一緒で、どーでもよかったのかなって」 「……なるほど」  シノひとつ頷いて、それから少し考える。  つまり、それというのは。 「リンさんは、和真さんのことが好きだったわけですね?」 「や、か、勘違いしないでよっ。そもそも、一晩だけの付き合いじゃなくて、恋人になろなんて、気に入ってないと言わないでしょっ! ボクは、和真となら仲良くなれそうだなって思っただけ!」 「なら、『友達』から始めればよかったじゃないですか」 「そ、それは……そうだけど……」  リンの声が、尻すぼみに小さくなっていく。最後のほうなど、ショッピングモールの喧騒にかき消されているほどだった。リンは落ち着かない様子で、床やシノを見ては、何か言おうとして言わないことを何度か繰り返した。  シノはその間、口を開かずに待っている。リンが、彼自身の言葉で語るのを。 「……だって、友達とはえっちしなくない?」 「……まあ、人によるかとは思いますが。もしかして、それで『恋人』を選ばれたんです?」 「……かも?」  リンもよくわかっていない様子で首を傾げている。シノもまた、しばらく考えてから尋ねた。 「では、リンさんはまだ、和真さんのことを『友達』としてなら見られるということですか?」 「今は無理だよっ。だって、和真は謝ってくれなかったもん。ずっと待ってたのに、今だって知らんぷりしてるじゃん」 「今から謝って来たら、あなたは許すんですか?」 「……わかんない!」  リンはぷいとシノから顔を背けて。それから、小さな声でブツブツと語った。 「……でも、ボク、和真と喧嘩したいわけじゃないし、嫌われたくないし……だけど、ボクがなんも気にしてないよって言うのは違うと思うし。謝ってもらえたらいいなって思うけど、それでスッキリするかはよくわかんない。だいぶ時間が経っちゃったしさ」 「なるほど、確かにそうですね。随分時間は経ってしまいました。でも、あなたは許すかどうかはともかく、謝罪が欲しい、と」 「……なんかシノって、尋問みたいな喋り方するね。シノも和真と寝たの?」 「冗談はよしてください。僕には心に決めた人がいますし、彼のような男とは寝ませんよ」  シノの言葉に、リンは一瞬きょとんとした後でクスクス笑い始めた。 「和真のお友達なのに、そんな言い方酷いよ~」 「事実ですから。和真さんの人柄をどう思うかはともかく、僕はああいう人と「寝るような」関係になりたくはないです。まあ、友人としては仲良くさせてもらっていますけどね」 「ホントに友達なの? 怪しいな~」 「友達、だと思いますよ。こんな機会に呼ばれて、僕もそれに応えるぐらいには」  シノは微笑み、そして端末が着信したのに気付いた。和真からの通話である。シノは一度リンを見てから、応答した。 「はい。はい、……え? それは……大丈夫そうなんですか?」  シノが心配そうな声を出す。リンも何か有ったのだと推測できたのだろう。不安そうにシノの顔を覗き込んでいた。 「ええ、ええ……、わかりました。どのあたりです?」 「なになに、どうしたの?」 「はい、……わかりました。すぐに向かいますね」  シノは通話を切ると、リンに告げた。 「薫さんが、倒れたのでこれからタクシーを呼んで帰るそうです」 「え! だ、大丈夫なの、薫!? 病院とか、救急車とか……!」  リンが思わずスマホを取り出したけれど、シノは首を振った。 「ご本人曰く、よく有ることだそうで。帰って休めばいいとのことです」 「そんな、知ってたらボク、薫のこと引っ張り回さなかったのに……!」 「引っ張り回していた自覚は有ったんですね」  ともかく、ふたりの所に行きましょうか。  シノはリンの荷物を持ってやりながら、和真の教えてくれた場所へと向かった。  その少し前のこと。  和真と薫はゆっくりと歩きながら、話を続けていた。 「……ところで、和真君。もしかしてリンちゃんと、喧嘩とかしてる?」 「エッ!!!!!!」  和真は周りの人々が振り返るほどの大声を出した。それで薫も察したのだろう。困ったように微笑んで。「ごめんね」と呟く。 「いやっ! 薫さんが! 謝ることではッ、なくてですね!?」 「ううん、私はまた、和真君の事情も知らずに大変な目に合わせちゃって……気まずいだろうからね」 「いえっ、これは! 100%! 身から出た錆といいますかッ!」  いいますか、もなにも、そうでしかない。しかも薫が落ち込むようなことでもあったら、本当にどうしようもない話だ。和真は極力明るく言った。 「なんていうか、まあ喧嘩……みたいなことにはなったんですけど、まだ謝れてなくて……それで、どうしたらいいかわかんなくなってるっていうか……」 「そうなんだ……それは、気まずいだろうね……」 「そ、そうなんですけどぉ! か、薫さんは全然悪くないんで、ホントに、俺とリンちゃんのっていうか、俺の問題というか、俺が問題というか……!」  なんと説明しても、色々とバレそうで。和真が言葉を濁しに濁し、次になんと説明して薫に落ち度が無いことを伝えるべきか悩んでいると。 「…………っ」 「わ、わ!」  薫が突然、その場にしゃがみこんでしまった。和真が慌てて膝を着いて視線を合わせると、随分顔色が悪い。血の気が引き、ぜえぜえ苦しげに呼吸をして苦しそうだ。和真は慌てて薫の背中を擦り「大丈夫ですか!」と声をかける。  ショッピングモールなのだから、周りの人も足を止めたり、あるいは通りすがりに見つめていた。しかし、和真たちに駆け寄る者はいない。通行を妨げていることはともかく、通路でしゃがみこんでいたら何が起こるかわからない。 「薫さん、動けそうですか!? それともここで救急車呼びますか!?」 「……だいじょうぶ、……ちょっと、座って休めばよくなるから……」 「……ホントですね? 俺がヤバイって思ったらすぐ呼びますけど……ちょっと、ちょっとだけ頑張れます?」 「うん……だいじょうぶ……わ、わ……」  薫の身体を引き寄せ、そのまま気合いで抱き寄せた。その時の和真は、薫を助けなければで頭がいっぱいだったのだ。陸上で鍛えていて良かったとか、何処かでちゃんと休ませないと、と考えるので精一杯だった。薫をいわゆる姫抱きして歩いていることもわかっておらず、とにかく近くのベンチソファに連れて行く。  幸い空いていたので、座らせるよりこっちのほうが、と横にさせた。薫はぐったりとベンチに身を預けながら、「和真君は力持ちだね……」と呟いている。 「薫さん、これは「よくあるやつ」なんですか?」 「うん……人混みとか、長い時間歩いていたりすると、たまにあるから……心配いらないよ」 「心配は、しますよ!」  和真は声を荒らげる。人混みに長時間、まさに今日やってきたことだ。知っていれば、薫に無理をさせたりしなかった。リンに勇気を出して声をかけ、少し休もうと提案できたのに。どうして教えてくれなかったのか。  そう考えて、和真は首を振る。知らなかったことを責任転嫁しては、いけない。和真はリンに謝らなかった。薫の身体が弱いことを知っていて、声をかけなかった。それは和真の責任だ。  何も知らずに振り回していたリンのせいだけでも、リスクがあるとわかっていてそれを伝えなかった薫のせいだけでもない。自分にできることがあったのに、それをしなかったのだから。 「……薫さん。家、帰りましょ」 「え……?」  和真の言葉に、薫が不安げな表情を浮かべた。 「帰るって……」 「タクシー、呼びますから。一緒に帰りましょ。大丈夫、シノとリンちゃんには言っておきます。ふたりとも、急病とかで怒るタイプじゃない……と、思うんで」  シノはそんなことで怒るならとっくに和真など縁を切られているだろうし、リンのことは正直よく知らないけれど、根は悪い奴ではない、ような気がする。よく知らないけれど。大体、こんな状況でヘソ曲げる方がおかしい。  和真がシノに通話して、状況を伝える。それからタクシーを呼ぼうとしていると、薫が「和真君」と上体を起こした。 「大丈夫、少し落ち着いたから。もう少し休めば、また歩けるから。だから……」 「また歩けるって……買い物続ける気ですか!?」 「だって、せっかくみんなも来てくれたんだし……迷惑をかけて申し訳ないよ」 「薫さん!」  和真は思わず、薫の肩を掴んだ。驚いた表情の薫に、強く言う。 「申し訳ないことなんて無いんです、体調は誰だって悪くなる時は有ります! だから、迷惑なんてことはないし、無理しなくていいんです! むしろ薫さんがこれ以上つらい思いしたら、俺たちもつらいし、楽しめないですよ!」 「……和真君……」 「だから、帰りましょ。大丈夫、またいつだって4人で集まって何処へでも行けますって、……タブン」  果たして、シノはまた来てくれるのか、リンとは気まずいままなのか。色々頭を過ぎったけれど。  和真の言葉に、薫は小さく頷いて。 「……本当にごめんね……」  和真に聞こえないほどの声で、呟いた。    

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