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 バー「ジョー」は、客の入りも少なく、いつもに比べれば静かな様子だった。  それもそのはず、カウンターには神妙な面持ちで座っている和真がいるからである。その隣には、無表情のリンも腰かけていた。いつものようににこやかな笑顔を浮かべたマスターが、ふたりの前にカクテルを差し出す。  和真は、それを一息にぐいと飲み干して、しかしそれでも切り出せないままでいた。  あの日。  4人で出かけたその日の、夜のことである。  看病するとは言ったものの、すっかり元気になった薫と食事を摂っていると、彼が言った。 「ねえ、和真君。リンちゃんのことなんだけど……」 「ぶえっ」  急にリンの名前が出てきて、和真は食べていた物を噴き出しそうになった。なんとか耐えたものの、汚い声を出してしまったのはどうしようもない。口を押さえつつ、「え?!」と薫に返した。 「えっと、大丈夫?」 「あっ、はい、はい、大丈夫すよ! えと、それでリンちゃんが……?」  聞き返すと、薫は今までになく真剣な表情で言う。 「差し出がましいかもしれないけど、もしもね。和真君に仲直りするつもりが有るなら、ちゃんと謝った方がいいと思って……」  それはもちろん、和真もわかっている。仲直りとは言わないまでも、自分のしたことをしっかり謝罪したいと感じているし、できることならそうしたい。  だが、今更そうすることで余計に事態が悪化する気もして、どうにも踏み切れないのだ。自分がスッキリしたいだけで、本当は謝罪するつもりなんて無い可能性だってあるのだし。  和真は悩んだ末に、その思いを薫へ伝えた。すると薫もまた、深く思案してから、頷く。 「そうだね。私は君たちに何が有ったのか知らないし、確かに謝らないほうがいいことも、あるかもしれない……でも」  薫は和真ではなく、何処か遠くのほうを眺めながら言った。 「もしもね、リンちゃんがそういうことを望んでいないのなら、あんなふうに和真君を含めて遊びに行こうなんて言わないと思うんだ。水に流した……というわけでもないんだろうけど、何か和真君との繋がりを続けてもいいと思ってるから、あの場が設けられたんじゃないかな。なら、君にそのつもりがあるなら……」 「それは、……そう、ですけど……」  薫の言いたいことはわかる。和真もできればそうしたい。ただ、それには大きな勇気と覚悟が必要だった。  わかっているのだろう。薫もひとつ頷いて、「無理にとは言わないよ」と呟いた。 「でも……もしかしたら、話し合えば続くかもしれない関係が、遠ざかっているうちにどんどん気まずくなって、どうにもならなくなったりすると悲しいから……」 「薫さん……」 「もしあの時、早く本音を伝えていたら変わっていたのかも……なんて考えて、ずっと後悔したり、してしまうから。和真君にはあんな思いして欲しくないって、感じてね……」  だから、口出ししてしまったけど、君が望まないなら私の言うことは聞き流してもいいからね。  薫は、どこか悲しそうに微笑んでいた。 (確かにそうです、薫さん)  和真は、バーのカウンターに向かったまま、神妙な面持ちで思う。 (俺の為ではなく、リンちゃんへの筋を通す為に。うやむやにしない為に。変わったかもしれない関係を後悔しないように)  できるのであれば、したほうがいいこともある。もちろん、大失敗するかもしれないけれど。リンを傷付け、自分も傷付くだけかも。  それでも、和真は話さなければいけないと、感じた。 「ねー和真。話ってなーに? 用がないなら帰りたいんだけどー」  何も切り出さない和真に痺れを切らしたらしい。リンが不満そうに言いながら、グラスを回している。彼にしてみれば、急に呼び出されて来た挙句放置されているのだから無理もない。  バーには他にも客がいる。皆常連なのだから、リンと和真に何が有ったのかぐらい知っているし、これからどうなるのかと様子を窺っているようだ。要するに冷やかしである。  ここで会うことを指定した時から、こうなることはわかっていた。和真は彼らの前で笑い者になることも覚悟の上で、ひとつ深呼吸をすると、グラスを置いて。 「リンちゃん!」 「は、へ!?」  勢いよく椅子から立ち上がると、そのままの流れで床に跪き、 「ごめん!」  深々と、頭を床に付けるほどの土下座をした。 「か、和真!? 何して……」 「俺、リンちゃんにひどいこといっぱいした! 本当にごめん! 謝って済むことじゃないけど、でも俺の考えたことを聞いて欲しいっ!」 「ちょ、和真、わかった、わかったから顔上げてよぉ! ボクが悪いみたいじゃん!」 「悪いのは!! 俺!! です!!」 「わかったからぁ~!!」  リンが大きな声を上げて、和真の背中を引っ張る。それでようやっと顔を上げ、和真はのろのろと促されるまま椅子に戻った。 「いきなりなんなの? もうっ」  リンは唇を尖らせて、グラスのカクテルを飲み干す。ぐいっとマスターに差し出すと、彼も頷いておかわりを作り始めた。和真はそんな様子を見ながら、慎重に言葉を選んでいく。 「正直に言うよ。俺、リンちゃんと付き合うまで……人を好きになるってわからなくてさ。誰も好きになったことがなかった。だから、浮気の何がいけないのかも知らなかったんだ」 「知らなかったから、しょうがないってことぉ?」 「そうじゃなくて。だって知らないからって許されるようなことでもないよ、そういうモラルみたいなものは世間一般に知られてるんだからさ。でも、それが相手にとってどういうことなのか、わかってなかったんだ」 「……ふぅん?」  リンはマスターから新しいカクテルを受け取りながら、頷いた。理由は解らないけれど、リンは特に怒るでもなく、和真の話を聞こうとしているように見えた。 「だから、リンちゃんと恋人になった時だって、それがどういうことか全然理解してなかったんだ。俺がこういう人間だって知ってるんだから、別に他の男と寝たっていいだろ、って」 「でもボク、すごい和真とエッチしてたじゃん。結構頑張ってたんだよ? 仕事終わりに誘われた時だってさあ、正直疲れてたけど和真の為に。それなのに浮気するってどういうこと? 足りなかったの、アレで」  リンが不満そうに口を尖らせる。彼の言うことももっともだ。セックスというのは大体、形はどうあれ内臓に異物を受け入れるのだから、女役のほうが負担が大きい。努力していただろうに、それでも足りていなかったと言われれば腹が立つのもわかる。  和真は、それにも一つの答えを出していた。 「……今ならわかるんだ。セックスが足りなかったんじゃなくて……どうしようもなく寂しかっただけなんだって」  夜、ひとりきりの部屋にいると襲ってくる、とてつもない寂しさ。あの孤独感から逃れる為にセックスをしていた。その正体がなんなのかもわからないまま。  いや、正直に言えば、あれが何なのかは未だに知らない。今、どうしてそれが落ち着いているのかも。 「俺はリンちゃんを裏切ったけど、そんなことする必要無かったんだよ。なのにそれもわかってなかった。だから全部馬鹿みたいにダメでさ、リンちゃんをすごい傷つけて……。それを本当に反省してる。許してもらえなくて当然だけど、おまけにすごく今更だけど、悪いことばっかりして、ごめん、リンちゃん……」 「…………」  リンはしばらくカクテルを啄みながら黙っていた。店内は妙に静かだったけれど、それが事実なのかはわからない。和真はリンが次に何を言うかだけ考えていたから、目の前のマスターが何かしているのも目に入らないほどだった。 「和真さあ」  長い沈黙のあと、リンは和真を見ないまま口を開いた。 「今そんな話してくるってことは、わかったきっかけがあったってことだよね?」 「え、ま、まあ……」 「それって何?」 「それは、その……」  口ごもると、リンがじとりとした目で見つめてくる。誤魔化すな、という圧を感じて、和真は観念して答えた。 「人生で初めて、人を好きになりました……」 「よりを戻そう……って話じゃないんだから、当然ボク以外の人をってことだよねえ?」 「その……あの……薫さん、です……」  消え入りそうな声で伝えると、リンは目を丸くして、マスターも「わあ」と声を上げていた。  和真は嫌な鼓動の音を聞きながら、まるで上司やクレーマーに頭を下げている時のような心地になりつつ、続ける。 「なんでかはよくわからないんだけど、いや、わかるんだけど。すごい優しい人で、でも身体が弱くて、心配してたりしてたらいつの間にか、今年の初めぐらいにたぶん好きになっちゃって……」 「…………」 「そ、それで、俺、ずっと片想いしてて。それで、その。恋人にもなってない薫さんに、他に好きな人がいるのかとか、もし肉体関係が有ったらとか考えたら、すげえ辛くて。じゃあ恋人がそんなことしてたら……って、考えて。リンちゃんに悪いことしたって、やっとわかった……次第です……」  尻すぼみになっていく言葉。言えば言うほど、自分がただのクズであると痛感して、本当に申し訳無い。しかも謝って何がしたいというのだ。許してもらえると思うほうが図々しい。  これ以上無いほど、身体を小さくしていると、リンがそれはそれは深い溜息を吐き出した。 「あーあー。ホントもう、最低……」 「重々、承知してます、俺は最低の人間です……」 「じゃなくてー。あーもー、なんでこうなんだろうねー、マスター」 「なんでこうなるんだろうねえ~、リンちゃん」  その言葉に恐る恐る眼を開ける。リンはマスターと顔を合わせて、苦笑いを浮かべていた。 「リンちゃん……?」 「どこから話そうっかな~……」  リンはカクテルの入ったグラスを指で撫でながら。 「実はさ。ボク、別に和真のこと好きじゃなかったんだよねー」  と、言いきった。 「…………え、えええぇええぇええ!?」  何もかもがひっくり返ったような心地になって、和真は今日一番の大声で叫んだ。    

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