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第1話

  もし君に出逢わなかったら……俺の人生はこのまま、何も変わることなく終わっていただろう。  ここ数ヶ月、朝目覚めと共に頭痛と吐き気を感じるものの、初めは仕事の疲れからだろうと気にも留めていなかったのだが、日を追う毎に激しくなる頭痛と目眩に倒れた俺を心配した弟の雅が、半ば強引に俺を病院へ連れて行った。  俺が三井家に連れて来られたのは八歳の時だった。三井家には二人の息子がいた。五歳の潤と三歳の雅。俺は妾の子だった。母が亡くなった日…… この家に入る事になったのだが、今でもその日の事を鮮明に覚えている。まるで汚らわしい者を見るような義母と潤の瞳。その時、まだ幼かった雅は大人の事情など理解できる訳はなく 、ただ「遠くに暮らしていた兄さんが戻って来た」と俺を笑顔で迎え入れてくれた。一年後……俺が原因で義母が自殺をしてからも 、雅はずっと俺を慕い続けてくれた。  白をベースにした明るい診察室。雅が大袈裟に医師に俺の状態を説明し始める。  「兄さんの頭痛や目眩が酷いんです。この際、徹底的に調べて下さい!」  この雅の言葉で俺は検査入院を余儀なくされてしまった。今朝も心配性の雅は電話をかけてきて「検査結果、僕も一緒に聞きに行く!」と言ってきかなかったが、俺は「一人で大丈夫だから」と雅を説得し家を出た。その後、何度も雅から『一緒に行く』など幾つもメールや留守電がスマホに入っていたが、俺は予約の時間まで仕事をこなし、そのまま一人で病院に向かった。  その選択は間違っていなかった。  「ご本人にと告知欄にチェックを入れられていましたので……」  医師が言葉を濁しながら俺に告げた病名は脳腫瘍。  「MRIの画像ですが此処に大きな腫瘍があります」  そう説明されながら見せられた画像には白く濁った様な塊が写し出されていた。  「血液検査から診て腫瘍は良性のものだと思われます。ですが腫瘍は浸潤性のもので……」  そこまで話した医師の顔が曇る。俺はそれが何を意味するのか直にわかった。  「手術不可能な場所に腫瘍が出来ています」  「それは、つまり……」  「残念ですが……」  黙ったまま何も話さない俺に、医師は言葉を続けた。  「ただ、今の段階で定位放射線照射治療を始めれば少しは時間を……」  そこまで話した医師の言葉を俺が止める。  「俺に残された時間は後、どの位でしょうか?」  動揺一つせずにそう尋ねる俺に、医師は少しの間を取ってから言葉を続けた。  「腫瘍の進行度にもよりますが……放射線治療をしなければ長くて二年。早ければ半年の場合も……」  「そうですか……」  俺は告げられた余命の短さに驚きはしたが、それと同時に「やっとこの命から開放される時がきたのだ」と言う想いが脳裏を過ぎった。  誰からも望まれることなく生まれた俺。実の母でさへ俺を疎ましく思っていた。私の父親である綾野家の当主と正妻の間には長い間、子供が出来ず綾野家は名の知れた資産家であった為、跡取り問題は重要だった。そこで白羽の矢が立てられたのが、綾乃家と繋がりのあった三井家の……つまりは俺の母親で。母には当時、結婚を誓った男性がいたのだが、綾乃家に借金をしていた両親の人身御供となり、俺を身篭らさせられたのだ。母にとって俺は愛する人との仲を裂く者でしかなくて、俺は実の母にさえ愛された記憶がない。俺が生まれて三年後に正妻が身篭ったと聞かされた時、母は心を病んでしまった。それ以来、俺を自分の息子とは決して認めず、俺は母の子供ですらなくなった。  「どうされますか?」  医師の声で現実に戻された俺は  「治療は一切するつもりがありません」  ……と、何の迷いも無く、きっぱりそう答えた。  「ですが……」  「俺にはやらなければならないことがあります。入院などしている時間はありません。このまま何も治療を受けなかった場合、症状は?それを緩和する術があるのなら、それだけお願いしたいと思います」  俺の揺ぎ無い言葉に医師は説明を始める。  「今後も頭痛と目眩は続くでしょう。腫瘍が出来ている場所から考慮すると、先ず記憶や視力の低下があげられます。他には痺れや麻痺と言った症状も。定位放射線照射治療を受けられないのであれば、腫瘍の進行を抑える薬に加え副作用などそう言った他の症状を抑える薬を処方しますが、必ず定期的な診察と検査を受けて頂くのが条件になります。症状緩和に関しては腫瘍の経過を診なければ、適切な薬が処方できませんので」  「分かりました。ただ、このことは俺以外の人間には内密にお願いします」  「守秘義務がありますので、それは心配いりません。ですが、今後の病状の事などもありますからご家族にお話された方が良いかと……」  「では折を見て俺から説明します。それまでは内密にお願いします」  「わかりました。薬の副作用などもありますので次回は一週間後に……」  その言葉を聞き終えた俺が席を立ち、医師に一礼をして診察室を出ようとすると、もう一度医師が俺に尋ねた。  「本当にこの選択で宜しいのですね?」  医師からの問いに  「はい」  そう短く答えて扉を開き診察室から出た。その後、暫く待つと看護師に呼ばれ次回の予約を取った後、一階の受付まで戻り会計を済ませ、最寄りの薬局で細かく指示を明記された薬を手に仕事に戻った。  その後の記憶はあまり鮮明ではない。ただ……何時もの通り仕事を淡々とこなしていたと思う。俺自身は医師の言葉に動揺していないつもりだったが、自分の身に起きている事を受け止めるには時間が必要だった。思考と感情を完全にコントロール出来るようになるには、半日を要した。  誰もいなくなったオフィスで、俺はこれからの事を考えながらふと机の上に置いたままにしてあったスマホに視線を移すと、何件も雅からの着信履歴があり「雅には話せないな……」と呟いた後、その履歴を削除しながら呟きメールのマークをタップし  『検査結果は何とも無かったよ。暫く、仕事が忙しくなるから家には顔を出せないけれど、心配しないように」』 そう雅に打つと送信し、オフィスを出たのはいいが、何故か夜風に当たりたくなり、車で十分の自宅までの道を俺は冷たい空気を感じながら歩いていた。  もしかしたらそれは……キミに出逢う為、何か見えない力がそうさせたのかもしれない。

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