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1,禁断の入り口(攻め視点)

 朝七時二十八分の普通列車。  一番後ろの車両の出入り口前。  ・・・・・・進行方向にそって右側の、手すりのところ。  男子の平均身長より気持ち低めの痩せ型。癖のない黒髪に、遠めに見ても綺麗な睫毛。耳にはワイヤレスイヤホンをして、いつも凛と前を向き、窓の外を眺めている。  今日から夏服の制服に変わったのだろう、半袖シャツから覗いた若々しい二の腕が眩しい。  肘の上あたりがプチっと赤く腫れており、蚊に食われたのだとわかる。昨日はなかった虫刺されの痕だ。と、おもむろに首へ手が伸び、うなじを掻いた。制服の襟の内側がほんの数秒間、晒されて、どくんと心が跳ねる。  どきどきしながら見つめていると、首筋にも肘と同じ赤い腫れが。あんな場所まで刺されて、———可哀想に・・・・・・俺も・・・・・・刺されたい、刺したい。蚊が羨ましい。  車両の乗車率は八割程度、適度に人が密集した中で、他とは一線を期したように目を惹く美少年がいる。  最寄りの駅から六つ目、彼が降りる駅まであと一駅だ。  東城清宗(とうじょう きよむね)は胸の高鳴りを抑え、スマホのカメラを起動させた。  どくん、どくん、心臓が激しく脈打つ。  車両の揺れに合わせてさりげなくスマホを傾け、被写体を画面に収めた。  ———カシャ  一秒後にすかさず画面をオフにし、二秒後に画面を確認する。ホッ。よかった。ちゃんと撮れている。  すると到着アナウンスが耳をかすめ、間も無くして車両が大きく揺れた。到着駅から数メートル前の急カーブを超えると、電車はゆっくりとスピードを落とす。 「・・・・・・駅ぃ、到着後のお出口は右側ぁ、右側が開きます」  間伸びした独特のイントネーションを聞いているうちに自動扉が開き、ドッと乗客がホームへと降りていった。  あの彼も。そして自分も。  東城は降車客の波に置いていかれないように自動扉の方向へ進み、ホームへ・・・・・・そのとき、誰かに腕を掴まれた。  振り返ると、厳しい表情をした会社員の男女が東城を見据えている。 「あなたを駅員に引き渡します」  腕を掴んだ男性が東城にぴしゃりと言い放った。 「え、あ・・・・・・ちょっと待ってください。どうして・・・・・・?」 「そんなの決まっているじゃないッ! あなた、高校生の少年を盗撮していたでしょう?!」  声高に詰め寄ってくる女性に、東城は脂汗を浮かべる。  しまった。見られていた。  言い訳できないでいる間にギャラリーが増え、そこに紛れて当事者の少年も。不思議そうに三人を見つめている。 「ちがうんです」  何とかその一言を絞り出したが、「嘘おっしゃい」と言わんばかりに二人の顔が険しくなっただけだ。 「ほんとに・・・・・・ちがくて」  東城が弱々しく呟いたところで駅員が溜息混じりにやってくる。「この忙しい時間に」と、不満と怒りが顔いっぱいに記されているみたいだ。 「それで?」  駅員はさっそく高圧的な口調で成り行きを訊ねた。 「この人が・・・・・・」 「ほんとに違いますから! これを見てください!!」  説明をはじめた女性の声を遮り、東城はスマホに先ほど撮った写真を表示させ、声を張り上げる。 「え・・・・・・?」 「あ!」 「うそぉ、まさか」  駅員、東城を捕まえている会社員の男性、女性、各々が同時に口を開いた。 「それじゃあ、まだ行内にいるかもしれないので、僕はホンモノの痴漢を探してきます!」  駅員は慌ただしく場を後にする。  東城が見せた写真には、少年の下半身を触る別の男の姿が映し出されていた。つまり、痴漢をされている証拠を写したものである。  疑惑が晴れてよかった。胸を撫で下ろしていると、会社員の二人は「すみませんでした」と頭を下げる。 「あの、あなたはもしかしてアルファでしょうか・・・・・・。アルファのかたに大変失礼なことを・・・・・・大変申し訳ありませんでした」    アルファだから謝るのか? と一抹の疑念がよぎるが、マスクを下げてからカタチだけの笑顔を作り、腕時計を見る。 「そうですが、怪しい動きをしていたのは事実なので、謝らないでください。正しい行動だったと思います。では遅刻してしまいますので、これで」  そう言って会釈をし、東城は足早に改札へと向かった。  人だかりはいつの間にか消えている。スムーズに改札を通り、左、西口のバス乗り場方面。  しかしバスには乗らず横断し、大通りへ抜けた。  自分は最初の角をまた左へ曲がるが、彼は・・・・・・あの少年は右へ曲がる。少しばかり走って角まで行くと、サラッと風になびいた黒髪が目に入った。間に合った。東城は口元を緩め、少年の後ろ姿に目を細める。 「いってらっしゃい、・・・・・・いってきます」  これは毎日の儀式だ。彼が今日も安全に過ごせますようにと祈る。少年の姿が見えなくなるまで、しばらく立ち尽くし、ようやく足を左に進めた———。  ◇ ◇ ◇  この世には男女の性とは別に、後天的に現れる第二の性がある。  一般にはバース性と呼ばれ、思春期を境に身体が変化を起こし、全てのひとが『アルファ、ベータ、オメガ』のどれかの診断を受ける。  だがその多くは『ベータ』であり、バース性の影響を受けずに生活ができる。男女で営みを行い、家族を作り、子孫を残していく。  大きな変化にさらされるのは残りの二つ、『アルファとオメガ』だ。この二つの性は対照的であるが、互いに強い結びつきをもつ表裏一体の存在。  『アルファ』は簡単に言えば、ピラミッドの頂点に君臨する王者たち。容姿、家柄、才能、頭脳、生まれながらに全てにおいて恵まれ、社会的地位が高く、この世に生を受けた時点で勝ちが決まっているような者を指していた。  特出すべきは生殖器官。『アルファ』は他の性に比べて男性器が逞しく発達しており、有能な種をより多く生み出し、相手の身体に植え付ける能力に長ける。  対する『オメガ』は正反対の弱者。  『オメガ』の身体には男女問わず、効率的に子どもを宿し育てるための器官と機能が備わっている。それが何を意味するのかわかるだろうか?  彼らは子を産むのに特化した性であった。  個人差はあれど、思春期を迎えた『オメガ』はヒートと呼ばれる『発情期』を起こすようになる。期間は二、三ヶ月に一度、一週間程度つづく。  発情期には妊娠確率が格段に上がり、その間に子を宿すため、『オメガ』の身体は本能のままに雄を欲してしまう。熱に浮かされ、身体が疼いてたまらなくなり、体質によっては重いヒートに苦しむ。抑制剤が上手く作用せず、ショック症状で緊急搬送されたというニュースをときに耳にすることもある。  さらに『オメガ』には発情期に雄を誘う強力なフェロモンが放出される身体機能が備わっており、フェロモンに当てられた雄、とくに『アルファ』は理性をなくして凶暴化し、ところ構わず『オメガ』を襲う。  よって発情期中の『オメガ』はむやみに外出ができず、安定した仕事に就けない場合が多い。低賃金のアルバイトで食い繋ぐか、もしくは『オメガ』のカラダを活かして夜の仕事に身を落とすか、彼らの多くはそのどちらかで生計を立て懸命に生きている。  三つの性はどの組み合わせでも営みが可能だ。  だが『アルファ』と『オメガ』は互いをフェロモンの匂いで感知でき、運命の相手を嗅ぎ分けることが可能だといわれている。二つの性の間には『番』システムなるものがあり、いわゆるパートナーとなった『アルファ』と『オメガ』はその形を取る。  『アルファ』が『オメガ』のうなじを噛み、遺伝子を取り込ませることで成立する『番』。  『番』のいる『オメガ』のフェロモンはパートナー以外には効かなくなるため、社会的にも安定した生活を送れるようになるのである。  東城はアルファの性を持ち、あの少年はオメガの性を持つ。  少年は自分の運命の番に違いないと、東城は確信していた。  彼から放たれる甘く痺れるような香りが自分にはわかるのだ。  その想いが、東城にとっての生きる糧になっている。  ◇ ◇ ◇  ・・・・・・身長は人並み以上で恵まれていた。  人を見上げるよりも、見下ろすことが多い。  自分で見た目が良いと思ったことはないが、好きだと告白される機会は多々あった。彼女ら——稀に彼——が言うには、エキゾチックで男らしく、整った顔立ちをしているらしい。母方の祖父がアメリカ人の血を引いているため、ホリの深さや瞳の色にうっすらと影響が出ているのかもしれない。  その次に言われるのが、爽やか、アルファなのに優しそうとの感想。そして最後に必ずついてくる言葉は「優秀」だ。  何かにつけて「優秀」ともてはやされるけれど、アルファなど取るに足らない。くだらない。  そもそもアルファの家系にはアルファが多い。それ相応の地位と財力にものを言わせて子どもの教育に多大な金をかければ、子どもだってそれ相応に優秀に育つ。  生まれながらに他とは違う、一段も二段も格上されたステージで育てられてきたのだから、優秀であって当たり前なのだ。むしろ、そうでなければならないと、脅迫観念じみた思いさえ湧いてくる。  しかしそう思っているが、言えば「謙遜しちゃって」と冗談のように扱われ、または「アルファだからそんなことが言えるんだ」と妬みの対象とされてきた。  それでも思う、アルファだからどうしたというのだ。  アルファだから価値があるのか?  自分の価値はなんだ。自分の生きる意味はなんだ。 「東城先生、おはようございます」  ハッとする。横を通り過ぎてゆく登校中の生徒に、東城は「おはよう!」と挨拶を返した。  東城は教師になって三年目だ。勤めている私立栞ノ葉学園高等部は、このあたりでは有名な進学校にあたる。名を知られている理由としては、文武両道を維持しているという面だけでなく、政界の権力者、著名人、芸能人の子どもや孫が集まっているという点が大きい。  この学園に通う生徒のほとんどが富裕層の家系の子ども。伝統と格式を重んじ、生まれによって出来上がる暗黙の了解の縦社会。日本に身分制度は存在しないが、この学校独自のルールが存在し、俗に言う英国のパブリックスクールに近いものがあった。  当然に雇われている教師陣も全員がアルファである。  それに加えて重要視されるバックグラウンド。要は教師にも当人自身の人となり以上に、ブランドとなる家柄が大切だということだ。  うんざりする環境だが、それでも慕ってくれる生徒は可愛いし、何より教師は子どもの頃からの夢だった。だから続けている。  東城は代々世襲制を取っている大企業の御曹司だった。さらに長男で、幼い頃から経営を学び、会社を継ぐべく育てられた。  教師になりたいなどという夢は反対され、なんとか説得し、許しを得たのがこの学園だった。ここは父の母校なのだ。  かくして会社の相続権は弟に譲り、今に至っている。  古きヨーロッパのバロック様式を用いた壮麗で長い廊下を渡り、東城は職員ルームの扉を開けた。  華美な装飾が施された外側に比べ、職員ルーム内は地味。・・・・・・普通、一般的というべきだろうか。  奥の壁に沿って窓があり、それと並行に、職員用のデスクが二列になって連なっていた。どの教師のデスクを見ても、山積みのプリントやテスト用紙が今にも崩れてきそうな山を作り、開きっぱなしのパソコンの上には教科書が乱雑に放られている。  まるで学園のだらしのない部分を一箇所にまとめてギュッと押し込んだような状態だが、東城はこの空間が嫌いじゃなかった。  一歩でも外に出ればビシッと背筋を伸ばし、常に威厳を保った態度を取らなければならないので、息が詰まって仕方がない。生徒と接するのは好きだが、ここでの生徒と教師の在り方は東城の理想とは大分とかけ離れていたのだった。 「東城先生おはようございます、今日も電車通勤ですか?」  自身の席につくと、隣のデスクの国語教師桜矢智治(おうや ともはる)が採点中の小テストから目を離さずに口を開いた。 「おはようございます。健康のためですよ。歩かないと、年々と身体が鈍ってしまって」  東城は「ハハハ」と愛想笑いをして返した。  学園への通勤通学手段は基本的に車が多い。生徒は運転手つきの高級車での送り迎えが当たり前だし、教師は所有車で通勤する。 「こんなにあっついのに、そのためにマスクまでしてアルファの鑑ですねえ」  桜矢は赤ペンを指でくるくると弄びながら、顔を上げた。  公共の場でのマスク着用は、突発的に発生してしまったオメガのフェロモンから双方を守るために、アルファに向けて国から公式に推奨されていること。  個人のバース性を判断する一種の基準にもなっており、今朝の女性もマスクを見て、もしかしたらと思ったのだろう。 「マスク着用義務を守っているのは、あなたくらいなもんですよ。変わってるって、周りからよく言われません?」 「・・・・・・そうでしょうか、自分ではわかりませんが」  頭を掻き、当たり障りのない返答をする。  すると桜矢の目線が東城の後ろへ動いた。 「先生がた、宜しいかしら」  学園長の栞ノ葉恵子(しおのは けいこ)が職員ルームに姿を見せ、室内中に響き渡る音で手を叩く。お上品に告げられた言葉に、作業中の教師全員の視線が彼女へと向けられた。 「皆さまご存じかと思いますが、今年度をもって同町内の慶林高等学校が閉鎖となります」  学園長の話に、どくりと胸が跳ねた。 「その件に関しまして、昨日、そちらの高等学校から連絡がありました。どうにも老朽化した校舎に重大な欠陥が見つかったため、直ちに使用を中止しなければならない事態となってしまったそうです。つきましては、そちらの生徒を若干名、今年度いっぱい本学園で受け入れることと致しました」  室内が騒ついた。東城は膝の上で握った拳に手汗をびっしょりとかく。 「すみません、宜しいでしょうか」  教師の一人が手を挙げる。 「ええ、どうぞ」 「生徒同士のトラブルは大丈夫なんでしょうか。至急、対策を求められるかと思いますが」  大多数の教師が出された意見に頷いている。  それはそうだろう。  栞ノ葉学園も、慶林高等学校も、『高校』と一括りに表されるものであるが、中身を見れば、「海と山」「北と南」くらいの違いがあるとわかる。格差とは言いたくないけれど、生活水準が雲泥の差であるし、黙認されている生徒間の上下関係は、下手すればその辺の大人の社会よりも厳しい。 「先生がたの不安はよくわかります。もちろん考えておりますわ。慶林高等学校の生徒には離れの空き教室を貸し出す形とし、基本的に、受け入れた生徒はそちらで学校生活を送ってもらいましょう。体育などの教室移動が必要な授業は時間を別にして、学園の生徒とは極力関わりを持たせないように、先生がたもどうかご協力をお願いしますね」  学園長が話を終えるとタイミングよくチャイムが鳴り、その場での討論は打ち切られた。 「さ、皆さんホームルームが始まりますよ」  始まりと同様にパンパンと手を叩き、学園長は元の部屋へと戻る。 「適当だな~、つまりは俺たちが頑張れってことだろ。そんなんで平気なのかね」  採点中のテスト用紙を脇に積み上げ、桜矢は席を立った。 「どうでしょうね・・・・・・」  曖昧に返事をしたが、平気ではないに決まっている。  学園長にとっては、危機に扮した他校の生徒たちを寛大に受け入れたという実績が大切。その後のことは正直に言って、どうでも良いのだろう。  しっかりと話し合いをもち、もっと生徒を慮ってやらなければいけないと思う。  だが東城の頭はフワフワと浮つき、それどころではなかった。この件には夢のような事案が含まれている。  電車の中の彼、東城が想いを寄せるオメガの少年は、慶林高等学校の生徒なのである。  まさか、思いもよらぬ展開が舞い込んだ。  彼が来る? この学園に?  ・・・・・・生徒として?  彼に授業をする機会は得られるのだろうか、だとしたら自分は『先生』と呼ばれることになる。  たまらない愉悦感で笑みが溢れてしまい、東城は咄嗟に口を手で覆って隠した。  遠くから見守っているだけの他人だったのに、何もせずとも、ぐっと距離が縮められる。廊下ですれ違ったとき、教室で授業をしているとき、数日もすれば、すぐに彼も運命の匂いに気がついてくれるに違いない。  困った。興奮が抑えられない。・・・・・・抑えておかなければ。絶対に。少年が学園を卒業するまでは。  慶林高等学校の生徒たちがやってきたのは、物凄く急な出来事だった。彼らが姿を見せたのは話を聞かされたその日の午後。最小限の備品だけを持ち、数名の教師と、これまた小数名の生徒が学園の門をくぐった。  そのため手の空いている教師がバタバタと教室設営に駆り出されることになった。  しかし、校舎が使えなくなってしまったのだから、当然といえば当然か。  学園長は若干名と言っていたが、栞ノ葉学園に籍を移したのは、十人にも満たない三年生の生徒たちのみ。  もともと廃校が決まっており、新入生を取らなかったので一年生はおらず、二年生と三年生の九割以上はすでに転校の手続きを済ませていた段階だったようだ。  よって学園に来ることになったのは、「あと半年ちょっとで卒業なのに、わざわざ転校させるのは」と親がどうしても渋っている等の理由から、他の高校に転校が難しい子たちだった。  そのことを聞くと、その中に意中の少年がいたことに心から安堵する。ともすれば今朝が最後で、電車でも二度と会えなくなっていたかもしれなかったのだ。  東城は怪しまれない程度に彼を盗み見る。  少年は他の生徒に混じり、緊張感を滲ませて目を伏せていた。  そんな不安そうな顔をしないで欲しい。俺が守ってやるから心配ない。直ぐにでもそう言って手を差し伸べたいが、教師たるもの公平であれ、今は我慢の時だ。  一方、突然にやってきた異分子たちに、学園の生徒は特に気にしていない顔で視線をやっている。  普通の高校生ならば、興味津々に窓から身を乗り出して、騒ぎ立てる生徒が一人や二人いてもおかしくない。それでもさすがはアッパークラスの中で育った紳士淑女の卵たち、よそ行きの顔を崩さず静観に徹する。  だが間違いなく、一瞬にして彼らとの間には分厚い氷のような壁が築かれていた。  その壁は湖に張った氷のようだろう。余所者を冷たく暗い水の底に沈め、己れらは何事もない顔をしてその上に立ち、氷を踏みつける。  そして最低なことに、東城の感じた悪い予感は間もなくして的中した。  違いすぎる二つの世界が一つの学び舎に一緒にされて、不穏な空気に包まれた学校生活がはじまる。ことが起こったのは、少年が学園に編入してきてから、一週間ほど経ったあとだ。  渦中にいたのは、学園のスクールカーストの頂点に立つグループ。先輩から後輩へと受け継がれてきた由緒ある集団で、一般には生徒会の役割を担っている。  生徒や一部の教師の間では「クラウン」と名指され、王冠と名付けられていることから分かるように、属しているメンバーたちは現役のメンバーか、先代らによって選出された選ばれし者。  アルファであることが大前提で、選ばれる基準は成績と、当たり前に家柄、家族の発言力が関わる。  彼らの後ろに控える家族はそれぞれが学園を思いのままに牛耳れる影響力をもち、クラウンの中でもっとも権力をもつ生徒を「キング」、ついで「クイーン」「ルーク」「ナイト」「ビショップ」、取り巻きは「ポーン」とチェスに例えた呼び名をされる。  そのクラウンのキング様が、元慶林高等学校の生徒が使用している特別教室に現れ、一人の男子生徒をクラウンに指名したのである。  生徒の名前は斎藤響(さいとう ひびき)あのオメガの少年だった。  普段は静かな特別教室周辺が大変な人だかりとなり、教師陣は何事かと様子を見に行かされ、東城は教室のど真ん中で対峙するキングと響の姿を目にした。 「お前、オメガだろ」    個人にとっての、とてもデリケートな問題。キングは何の配慮もしないで端的に口にする。響の眉がひくりと反応し、「だからなんですか」とキングを睨みつけた。 「やっぱりな。知ってるか? オメガはこの学園にお前以外一人もいないんだよ」  冷淡であり、一瞬にして場の空気を張り詰めさせる威圧的な声。  キングは目を細めてほくそ笑む。  現在、学園に通う生徒のバース性の比率はアルファが四割、残りはベータ。オメガはゼロだった。  数年前に一人だけ居たらしいのだが、よほど稀有な才能に恵まれている者しかオメガは入学してこない。社会に出すことを親がいやがるためでもある。  だからであるのか、バース性関連の揉め事はまず起こらず、学園全体でオメガに対するケアの意識が低い。オメガの少年に対する対応の杜撰さが浮き彫りになる。  そして本来は持つべき生徒への指導権を、東城を含めた教師の誰もが行使できなかった。  栞ノ葉学園における教師の立場はあくまで、立ち居振る舞いの手本を示すだけの名ばかりの監督者。  この場を支配しているのはキングであり、教師であっても止めに入ることができないのだ。  響は謂わばオオカミの群れの中に丸腰で放り込まれた子羊。けれど、そんなか弱い少年を保護する手立ては、この学園には存在しない。 「この学園にはな、オメガの役割ってのがあるんだよ」  キングはそう言い、「教えてやるから一緒に来い」と響の腕を強引に掴んだ。 「痛いッッ、やめて」  咄嗟に響は抵抗を見せるが、キングには誰も手が出せない。しんとなった空気のなかで、取り巻きのポーンたちが暴れる響の肩や腰を押さえつける。 「大人しくしておけば痛い目はみない、いいな?」 「いいわけないだろッ、離せ、離せよ!」 「なんだあ? オメガのくせに活きがいいな。そうゆう奴も嫌いじゃないが、けどな・・・・・・」  キングはジッと響を見下したまま、激しく机を蹴り上げた。  机は勢いよく横倒しになり、身体がすくむような衝撃音が教室を貫く。 「・・・・・・ッッ、な!」  目を見開いた響の顎を撫でると、キングはおとがいを乱暴に鷲掴みにし、耳元に唇を寄せた。 「ここでぶち犯してやってもいいんだけど、・・・・・・どうする? 皆んなに見てもらいたい?」  響は顔を青ざめさせ、ピタッと抵抗をやめた。暴れていた身体は脱力し、懸命に張っていた虚勢がしおしおと崩れていくのが見てとれる。 「わかった・・・・・・行くから」  響は声を落として告げた。  教室の外までは詳しい会話が聞こえない。だがうなだれた少年の顔に東城はことの流れを察した。  傍観するしかない自分に、やるせなさが込み上げる。  教師の立場でなければ、キングを殴り飛ばしてでも少年を救い出してやりたかった。  東城は奥歯を噛み締めるが、何もできずに虚しく終わる。  当の被害者である響はクラス中の注目を浴びながらポーンらに取り押さえられて歩かされ、キングと共に仮設の特別教室から出ていった。  現キングに君臨する、殿坂柊生(とのさか しゅうせい)、学年は三年。政治家である父親と有能な兄弟の後ろ盾により、入学して間もなくクラウンに名を連ねる。  校則違反の金髪に多少の粗暴の荒さが目立つが、整った甘いマスクで人気が高く、つねに数名のポーンを侍らせている。  ルーク、風間悠人(かざま ゆうと)、三年。東城と同じく、大企業グループの御曹司。  ナイト、樫木田蒼(かしきだ あおい)、三年。大手美容整形外科を経営する医者の家系。  ビショップ、加賀美恒平(かがみ こうへい)。彼は二年生だ。世界で活躍する有名日本人画家の息子・・・・・・。  東城はカチリとマウスをドラッグし、生徒名簿を閉じる。  あれから半日。午後の授業を終えたのち、東城は急くように職員ルームに戻り、クラウンのメンバーを調べるためにパソコンを開いた。 「・・・・・・そうして、昨年までは空席だったクイーンの座に斎藤響が唐突に指名された」  頭を整理するために、一人でにつぶやく。  由緒あるクラウンに庶民の異分子を混ぜるなんて、何が目的なんだろうか。オメガであることと、クイーンの座に関連がありそうだが。  確か、先代のクイーンも男だったと聞いた記憶がある。  数年前に卒業したオメガの生徒と、そのクイーンは同一人物だったのだろうか。  謎はもう一つ。  なぜか卒業したオメガの生徒の名前が、過去の名簿から除名されており、バース性で検索をかけてもアクセスできないのである。  全員ぶんの名簿を確認してクイーンがいなければ、そのオメガがクイーンであった可能性は高まるが、何年前まで遡れば見つかるのやら。どうする・・・・・・今は夜の十九時。       仕事は山のように残っている。どちらを優先すべきか。  東城はさてと、腕を組む。すると良いタイミングだ、隣のデスクに古典文学研究会の顧問を終えた桜矢が戻ってきた。 「お疲れ様です~、ふぃー、ん、なんです?」  ドッと腰を落ち着けた桜矢に、期待を込めた視線を向ける。 「桜矢先生、良いところに戻ってきてくださいました」 「え? イヤ、イヤですよ~!」 「まだ何も言っていないじゃないですか!」 「わかりますよその目。僕はまだ仕事がありますからね」  頑なに耳を塞いでしまった桜矢に、「そこをなんとか」とへりくだった。 「ちょこっと聞きたいことがあるだけなんです」 「・・・・・・ほんとにそれだけですか?」    桜矢がちらりとコチラを見てくれる。 「はい、お約束します」  堅く断言して頭を下げると、「仕方ないな」と可動式のイスごとくるりと身体が向けられた。 「何でしょう、ちょこっとだけですよ」 「ありがとうございます。桜矢先生は俺が新人教師として着任する前から、この学園にいらっしゃいましたよね? 先代のクイーンについては詳しくご存知ですか?」 「・・・・・・ああ、あー、それか」  桜矢は言いにくそうに言葉を濁す。 「それ、あんまり首を突っ込まないほうがいいですよ」  その発言に東城は眉を顰めた。 「なぜですか」 「僕たちの踏み込める場じゃないってことです。他校から来て早々に、あの子は可哀想ですけれど・・・・・・。僕たちは無力ですから」  彼の話したことは事実だ。何も言えなくなる。 「・・・・・・ではこれだけよろしいでしょうか。先代のクイーンは、オメガでしたか?」  桜矢は頭を掻き、「そうだよ」と頷いた。  東城の胸で不快感がザラザラと音を立てる。昼に連れて行かれた少年は、帰りのホームルームの時間になっても戻らなかったと聞いている。彼の鞄をポーンの一人が取りに来たが、彼自身は姿を見せなかったと。  もし、まだ学園内にいたら・・・・・・。  ———今、あの子は何をされている? アルファはオメガにナニヲスル・・・・・・?  気づくと東城はデスクを強く叩き、立ち上がっていた。 「うわ、びっくり!! 東城先生どうしました?」  ひっくり返りそうになっている桜矢に、静かに憤りを込める。 「生徒会室に様子を見に行ってきます」  クラウンは生徒会室を専用の活動部屋にしていたはずだ。  桜矢があんぐりと口を開ける。 「何言ってるの! それはやめたほうがいい!」  そう言われて何度も止められたが、東城は桜矢の静止を振り切って職員ルームを飛び出した。向かう途中で、響——想いを寄せる少年が、とぼとぼと廊下のむこうから歩いてくるのと出くわした。 「斎藤!」  急いで駆け寄ると、響はハッとして顔を上げ、乱れていた制服の前をかき合わせる。シャツのボタンは中途半端に閉められ、ぼうっとしていたのか、かけ違っている箇所がいくつもある。 「———大丈夫か?」  居た堪れずに聞いたが、響は返答に困っているようだった。 「あ・・・・・・いや、平気です」  彼は表情を隠してうつむいてしまう。  ほんのりと香る情事の余韻。甘く匂い立つオメガのフェロモン。  平気であるはずがない。  たまらない匂いだ。鼻を押さえていなければ、むしゃぶりつきたくなる衝動に駆られ、本能に負けてしまいそうになる。 「抑制剤は飲んでいるかい? 匂いが漏れだして危険だ」  途端に響は弾かれたように顔を上げ、これでもかと目を見開いてうなじを押さえた。 「なんで・・・・・・っ、俺はまだヒートがきてないから、フェロモンも薄くて、そんなにわからないはずなのに・・・・・・っ」  ———そうだったのか。東城は衝撃を受けた。  そうであっても彼のフェロモンを強く感じるのだから、やはり自分は運命の番である証拠だ。  彼はきっとまだオメガの機能が未成熟で、運命の匂いが嗅ぎ分けられないだけなのだろう。  内心の喜びを悟られないように、あくまで教師の立場からものを言う姿勢をとり、真摯な顔をして見せる。 「殿坂に何をされた? 恥ずかしいことかもしれないけれど、隠さないで教えてほしい。ご家族から大切なご子息を預かっている以上は、教師として確認する義務があるんだよ」  黙認を許しておいて、なんて虫のいい。話しかけながらも、自分自身に反吐が出そうだ。  響はためらう素振りを見せ、「少し触られただけです」と小さな声で答えた。 「ほんとに少しだった? 斎藤の身体が心配だ。怪我をさせられていないか先生に見せてくれるかな?」  そう言うと、頬を引き攣らせて明らかに動揺をする。 「もちろん保健室でもいいんだよ。ただ養護教諭は女性なんだ、斎藤がよければ彼女に任せるけれど」  真剣な顔つきで少年を誘導する。最低だ。教師であることを盾にして言うことを聞かせようとしているなんて、紛れもなく倫理に反する行為だった。 「どうしたいかな?」  実際は身体の確認など必要ない。あえて粘り続けることで正当性を突きつける。親切な教師の仮面の下でそれほどまでに浅ましく、東城は期待と欲望を膨らませていた。  響は黙り込み、考えたのちに口を開く。 「・・・・・・じゃ、じゃあ、先生でお願いします」  期待どうりの返答に上擦りそうな声を必死になだめ、「よかった」と安心させる笑顔を作った。  響がぎこちなく笑顔を返してくれ、東城の中の罪悪感と背徳感が一緒になって爆発する。今はまだ駄目だ、今ならまだ引き返せる。いいや、この機会を逃すべきではない。悪魔の声と天使の声がない混ぜになって心に問いかけてくる。  一線を越えるのだけは堪えろと言い聞かせながら二人きりで空き教室に入り、東城は「脱いで」と指示を出した。響はうぶに頬を染めながら、ボタンを外していく。  やがて露わになった上半身に食い入る視線を向け、ごくりと唾を呑み込んだ。傷や打撲痕、押さえつけられたときの鬱血痕、拘束されたときにつく手首の赤みなどを入念にチェックする。そして響がズボンのベルトに手をかけた。 「ちょっと、ストップ?!」  東城は慌てて止めた。 「・・・・・・下は確認しないの?」  どこか訝しんでいるようにも聞こえる少年の声だ。  首を傾げられ、ドッドッと心臓が高ぶる。  だが冷静に。 「そうだな、下も触られたのなら脱いで見せなさい」  素直にベルトが弛められ、制服のスラックスが下げられた。  下着一枚の生々しい身体。まさかこんな形で、想いを寄せ続けた少年の裸体を目にすることになるとは思いもしなかった。  チカチカと点滅する脳裏であらゆる願望が駆け巡り、アルファとしての血が騒めき立つ。 「せんせ、もう、いいですか?」  響は肘をさすり、恥ずかしそうにうつむいた。 「あ、ああ、すまん、少し待ってくれるか」  怪我の確認という名目を果たさなければ怪しまれる。  彼のまわりをぐるりと一周してみるが、どうやら酷い扱いはされていない。  東城はひとまず安心する。  滑らかな肌に傷は一つも見当たらなかった。  その日以降、響はたびたびクラウンに連れて行かれ、そしてそのたびに東城は「身体の確認のために」と放課後に彼を待ち伏せた。  別のアルファの雄に好き放題されているという、はらわたの煮えくり返りそうな怨嗟の思いはあれど、特別な時間だ。二人きりの空き教室。しだいに他の生徒とは違う、より近い、親密な距離感を獲得することに成功したのだ。  それは何にも代えがたい恍惚の時間。自分を信頼して打ち明けてくれる響の話に、東城は今日もうっとりと聞き入っていた。 「東城せんせってさ、もちろんアルファでしょ?」  繊細そうな指先でボタンが一つ一つ外され、それを目で追っていたのだが、好ましくない質問に「そうだけど」と視線を上げ、響の顔に焦点を合わせる。  響はボタンを外す手元を見つめたままだ。 「アルファなら、やっぱり俺のこと抱きたいって思う?」  何を言い出すかと思えば・・・・・・。東城は溜息をつく。 「余計な詮索はしなくていい。先生はアルファだけど、大切な生徒をそんなふうに思わないよ」  そう言いつつも、ズボンを脱いだ太ももの内側にキスマークを見つけ、思いきり奥歯を噛んだ。 「・・・・・・だがクラウンの生徒たちはそうじゃないんだろうね。彼らもまだ子どもであるし、欲望をコントロールできずに君をむさぼっているんだ。だからって言いなりになる必要はないんだよ。いやなら、いやだとはっきり言った方がいい」  しかし東城の助言に、響は首を横に振る。   「それは無理、俺がクイーンでいることを拒否したら、特別クラスの皆んなが虐められるから」 「まさか脅されてるのか?」 「んー、そんな感じ」  絶句した。下劣、卑劣。そんな言葉が思い浮かぶ。  やはりこの子を守れるのは自分の他にはいないのだ。  そう確信することで、東城は全身に鳥肌が立つほどの興奮を覚えた。  怒りと共に、東城の心には運命の番として使命感が湧いてくる。———安心していい。何があっても君は俺の庇護下にいる。君と俺は運命で決められた唯一の存在どうしなのだから。  「まあ、仕方ないよね、この学校じゃ金持ちが一番偉いんだからさ。アルファは・・・・・・どこでもそうだけど」 「斎藤・・・・・・」  辛らつな言葉に東城が目を伏せると、不意にぎしっと机が軋む音を立てた。制服のシャツをゆるく羽織っただけの響が、東城の直ぐそばまで歩み寄ってくる。  生意気な、それでいて嗜虐性を誘うウサギのような、潤んだ瞳で見上げられ、匂い立つオメガの香りに理性が誘い込まれる。 「ははっ、先生、説得力なさすぎ」  色気をはらんだ声で笑い、響は東城の股間を撫でる真似をした。  もちろん触れてはいない。  響にとっては軽い冗談のつもりなんだろう。    だが触れそうな絶妙なタッチで昂ぶりを刺激され、熱を当てられたみたいに身体の血がぶわりと湧き立つ。 「・・・・・・こら、教師をからかうんじゃない」 「その顔で言われてもなぁ」  アルファの目にとってはあまりにも酷な光景。食べてくださいと言わんばかりに、熟れた食べごろの甘い果実を差し出されているのと変わらないのだ。  耐えろと言い聞かせ、唇を噛み締める。  口の中に滲んだ鉄くさい味と痛みになんとか理性を保ち、東城は自身のスーツのジャケットを響に羽織らせ、後ろを向いた。 「悪ふざけはそのくらいにして、早く制服を着なさい」  厳しめに言いつけたためか、素直に傍から離れてゆく気配がする。  響は何も喋らないが、スルスルとスラックスを上げる音、ベルトのバックルを締める金属音などが耳に届き、やがて教室の戸が開けられた。 「せんせ、ありがとう」    不意打ちで言われ、振り返りざまに東城は面食らう。 「何を言ってる、当たり前だろう」  どの口がと己れをなじる。しかし、東条の生真面目な答えに満足した笑みを浮かべて、響は嬉しそうに帰っていった。  それからはさらに距離が縮まったように思う。  廊下ですれ違えば、東城に笑いかけて手を振り、クラウンに呼び出された放課後には二人で残り、他愛のない話をする。  もしかして運命の番の匂いに気がついたのではないかと胸が浮き立ったが、このときはまだ、響から感じる好意は教師に対するそれであった。  けれど焦らなくても良い。どちらにせよ、想いを告げることができるのは彼が卒業したのちの話。  今はこの時間を大切にはぐくみ、かけがえのない存在と思ってもらえる位置づけまでのぼり詰めておきたい。  と、揚々と意気込んでいた、そんな矢先だった。  その日は珍しく放課後の早い時間に響の姿を見かけたので、東城から声をかけた。顔を上げた彼はどことなく具合が悪そうで、ぼうっとうつろな目をしている。 「どうした、何か酷いことを・・・・・・」  だが言い終える前にふわっと香ってきたオメガのフェロモンに慌てて我にかえり、距離を取った。 「・・・・・・ッッ! 斎藤?」  鼻を塞がなくてはならないくらいの匂いの濃さ。  ぼうっとした響の顔に良くない予感がして、冷や汗が垂れた。  ———まさか、ヒートだろうか・・・・・・?  まずい。本格的なヒートのフェロモンに当てられたら、自分を抑えられる自信がない。だからと言って、彼を放置してこの場を離れることもできない。  すかさず東城は響をいつも使っている空き教室に押し込み、彼の鞄を手に取った。  ヒート未経験の響の身体は不安定であるだろうし、突発的なものなら、今のうちに抑制剤を飲めばすぐに治まる可能性が高い。 「抑制剤は持ち歩いてるよな? ちょっと中身を見せてもらうよ」  断りを入れ、スクール鞄のファスナーを引く。  熱っぽい吐息を漏らす響の横で中身を探っていると、それらしいポーチを見つけた。スマホくらいの大きさの、薬を入れるとしたらちょうど良いサイズだ。 「これの中、見ていいか?」  響は「ハァハァ」と息を乱し、朦朧としながらこくりと顎を動かす。  開けてみると中身は包装シートに包まれた錠剤。ビンゴだ。 「はいこれ、飲んで。楽になるから」  そう言って差し出すが、響はぐったりと床に座り込んで飲もうとしない。 「頑張れ、頼む飲んでくれ」 「・・・・・・ハァ、ハァ、・・・・・・むり、たすけて・・・・・・せんせぇ」  響の身体は熱く、頬は蒸気している。潤んだ瞳で苦しげに喘がれては、こちらの身が持ちそうにない。  仕方がなく東城は自身の口に薬を入れ、響の唇に口付けた。 「ン、ンン・・・・・・は、あ」  これは口移しをして薬を飲ませているだけ。  悩ましげな声に意識がぶっ飛びそうになりながら、くちゅりと舌で唇を割り開き、薬を響の喉の奥へ追いやる。手持ちの水がないので、唾液を含ませ、喉仏が上下するのを確認してから唇を離す。  喉に張り付いて違和感があるのか、響が「うぐっ」と眉を顰めたが、うまく飲み込めていた。急いで窓を全開にすると、幾らか匂いもマシになり、しばらく待つと、ぼうっとしていた響がハッとして、教室と東城の顔を交互に見つめた。 「あれ・・・・・・俺、なにして・・・・・・」 「斎藤は軽くヒートを起こして、今さっきまで朦朧としていたんだよ。気分はどうだい?」 「え?! ヒート?!」  はじめてということもあるのだろうか、どうやらヒートを起こしていたあいだの記憶はあやふやなようだ。  良くも悪くも、口移しは無かったことになる。 「念のため聞くけど、クラウンの生徒たちに変なものを飲まされたわけじゃないよね?」  ヒートを強制的に引き起こす違法な薬も存在する。彼らがそれを入手するのは容易い。 「うん。今日は朝から熱っぽくて、さすがにあの人たちも来なくていいって」 「それならいいが。いつどこでヒートになるかわからないんだから、気をつけろよ。そうでなくても、お前は電車の中でいつも・・・・・・」  無防備なんだからと言おうとして、しまったと思った。 「電車? 先生って電車を使ってるの?」  学園の教師で電車を使うのは不自然。バレないように、気をつけていたのにやってしまった。  響は東城の顔をじぃっと観察すると、顔の下半分にパッと手を当ててみて、合点が入ったように目を丸くした。 「先生、嘘ばっかじゃん」  腹の底から冷ややかな声だった。 「違うんだ斎藤、聞いてくれ。先生は・・・・・・」 「何が違うの? 先生が電車でずっと俺のことを見てたの知ってる」  信頼していたのにと、吐き捨てられた言葉に東城は凍りついた。 「俺の味方ですみたいな顔してるけど、あんただって他の偉そうなアルファとおんなじだ」 「斎藤・・・・・・すまない、誤解なんだ」  しかし響は聞く耳を持たずに鞄を鷲掴み、背中を向けた。扉を力任せに開け、ちらりと振り返る。 「もう二度と俺に近寄らないって約束してよ。破ったら、あんたのこと皆んなにバラすから」  東城に拒否権はなかった。  ヒートのオメガのフェロモンに当てられてしまった場合には特別な措置が取られるが、いくらアルファとオメガであっても、教師が生徒に下心で近づくなどご法度中のご法度。  こんなストーカーじみた行為がバレたら、教師でいられなくなる。  ———どうする、なんて言えば・・・・・・。  うまく返事ができないでいるうちに、響は忌々しげに東城を睨みつけ教室を出て行った。

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