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憐れなΩは覚醒する
「Ωです」
この一言で俺の人生は終わったと思った。
バース性診断の後、今後起きるだろう発情期 に備えて抑制剤を処方された。お大事に、と受付で会計を済ませるまでは自分でも驚くほど淡々としていた。それにしてもいったい何を大事にすればいいのかわからない。うっかり、トレーの上に出す五十円玉を五円玉と間違えて出していた。
「そっか。Ωなのか」
誰にも気づかれない声量で、ぽつりと呟いた。
バース性診断。人は男女の性別とは別にα、β、Ωの三つの性に分けられる。それは容姿だけで判別できるようなものではなく、第二次成長期以降の血液検査で初めて判明される性だ。昔から、注射器の針が肉を裂いて体内へと侵入する感覚が苦手で、ずっと避けていたその検査を十五歳になったのだからと周りに急かされ、ようやく受けたのがこの日だった。
生まれながらのエリートだという社会的にも優遇されるリーダー気質のα性。ごくごく普通の、人口的にも最も割合の多いβ性。そして稀少だとされるα性よりもさらに稀少とされるΩ性。もしも、この中から性別を選べるのだとしたら、俺は迷わずβ性を選ぶ。いや、βがいい。αに憧れこそあれど、なりたいなどという欲はない。そもそも、欲がない時点でαとは無縁の存在だ。それに俺の見た目は誰がどう見ても平々凡々。中身もそれに伴っている。だから絶対にβだ。痛いだけの検査など無意味。大丈夫、大丈夫……と、これまでそう思っていたのに。
Ωだけは嫌だと、ずっと祈っていたのに。
はい。結果はそのΩでしたとさ。今後、三ヶ月に一度くらいのペースで発情し、めっちゃヤりたくてたまらなくなるそうだ。そしてそれしか脳のない生き物。身体もこれ以上は逞しくならない。
「はあ……」
嘆息しても結果が変わるわけではない。でも肩を落とさずにはいられなかった。トボトボと家路に着いた後、重い口を開いて結果を告げたら両親にこれでもかと嘆かれた。それも仕方のないことだ。自分の息子が年がら年中盛る生き物だと判明したのだから。その日、家の中はすっかりお通夜モードになってしまった。特に、田井中 家では元来Ωは不憫な末路しか迎えられない存在であると、大地主であり現・田井中本家当主である曾祖父の陸郎 からとくと言い聞かされてきたのだ。
希望も、明るい未来も、全てがこの日で閉ざされてしまったのだ。
それから数年。かつての明るさは何処へ行ったのやら、我が家からはすっかり笑顔が消えていた。そうさせてしまったのは俺のせいだと、バース性が判明してからずっと自分を責めてきた。次第にΩであることがいけなかったのか、から。そもそもこの世に生を受けたこと自体がいけなかったのか、に変わっていた。これで根暗のできあがり。高校では友達が一人も作れなかった。
でも、危惧していた発情は一度も発症したことがなかった。抑制剤のお陰だろう。注射が苦手な俺でも飲める錠剤タイプの薬はまさに命綱。平穏な日常生活を送る上で大事な服薬を一日たりとも欠かすことはなかったのだが、周りからすれば気が気でなかったのかもしれない。最低限の関わりはあれど、俺の青春は回送電車のようにあっという間に過ぎていった。そしてせっかく進学した大学も半年と経たずに辞めてしまった。Ωに対する性差別やセクハラに耐えられなかったからだ。
生きる意味を見出せず、しばし引きこもりの生活を送った。そんな俺を憐れに思った曾祖父が俺の父親と話し合った末、俺を家から出すことに決めた。物理的に距離を置く、ということだった。かといって、いつどこで発情をするかもしれない俺に一人暮らしをさせるわけにはいかないからと、預け先探しに難航した。母親から家事を習う中、後にそれは見つかった。父親が仕事先でお世話になっているというαの独身男性が手を挙げてくれたらしい。里中 さんというそうだ。
よかった、よかったと周りが胸を撫で下ろす中、俺の心中は複雑だった。だってそうだろう? 俺はこれから家族に捨てられるのだから。
しかし嫌とは言えなかった。両親に笑顔が戻るならばと渋々ではあるものの、俺個人の知り合いでも何でもない里中さんの家に行くことを承諾した。
運が良ければ里中さんと番 になれる。そうすれば一生食いっぱぐれることはないと、我関せずの親戚連中からとくと吹き込まれた。確かに条件だけなら悪くない。俺よりも十歳年上のその人は例に漏れず能力に秀でたαで仕事もでき、土地も数多く所有していて金に困ることはないという。そんな「すごい」人の下で今後は生活できるというのだから、俺はきっと恵まれているΩなのだろう。それに他のΩはもっと悲惨な人生を歩んでいるのかもしれない。
俺は恵まれている。俺は恵まれている。何度も自分自身に言い聞かせた。そうしてあっという間に、家を出る日がやってきた。
顔もまだ見ぬ相手の家へ伺う準備をしている中、一本の電話が入った。曾祖父が危篤だという知らせだった。死ぬまで現役宣言をしていた曾祖父も御年九十九歳。いつあの世に召されるとしてもおかしくない歳だった。俺はひとまず準備を中断し、両親と共にすぐに本家へと向かった。
短く息を切らして床に臥す曾祖父は恵 母ちゃんとうわ言を言っていた。今夜だろう、と主治医が静かに宣告する。俺が曾祖父の手を握ると、混濁した目で母ちゃん、母ちゃんと何度も呼ばれた。曾祖父の母親も俺と同じく男でΩだったのだ。
外曾孫とはいえ、内曾孫と変わらない……いや、きっと内曾孫以上の情があった。幼い頃は曾祖父も俺のことをよく可愛がってくれていた。「儂の後を継げるのはお前だけ」と言うのが口癖だったのに、俺がΩだと判明してからはそれもぱったりとなくなってしまった。だからだろうか。もう俺のことすら認識できない状態だとしても、この手をか弱い力で握り返してくれることが嬉しかった。
項垂れる俺の肩に父親が手を乗せ「最後は本家の人間だけで看取るそうだから」と、俺は席を外すよう促された。死に際の曾祖父に励ましの言葉や気の利いた言葉をかけてあげることもできず、「やっぱりお前は能無しΩだな」と従兄弟連中から馬鹿にされつつ離れへと引っ込んだ。寝室に入るとすでに敷かれてあった布団の中へ潜り込み、しくしく涙で枕を濡らした。
役に立たない上に追い出される。果たしてこんな俺に生きている意味はあるのだろうか。今後、αの家に預けられたところでΩに対する待遇は変わらない。役に立てることといえば、この身に新しい命を宿すことくらいだろう。しかしそこに人としての尊厳は、きっとない。
泣き疲れた俺はいつの間にか眠ってしまっていた。元々、夢を見るようなタイプではなかったが、この日は珍しくそれを見た。
内容はとあるΩの一生。昔から幾度となく聞かされてきた曾祖父の母親の半生だった。
田井中家で語り継がれるそのΩの名は恵。大層美しかったという恵は生まれてからずっと、座敷の奥に幽閉され生かされてきた。父、母、兄や姉、弟達も恵を蔑み、いないものとして扱ってきた。彼もまた、彼らに心を閉ざしていた。
唯一、心を開いたのは恵の世話をする奉公の男。恵はすぐに恋に落ちた。いつかは外に出してあげると、男は恵に約束した。
しかし恵は男と結ばれなかった。持て余しているΩを買ってやると、とある資産家のαが恵の家族に提案したのだ。大金を得た家族は喜び、彼を資産家の下へ引き渡した。
恵はそのαの慰み物になった。番だけは避けるよう首輪を嵌めたまま、長いこと長いこと虐げられた。腹に子を宿すのは時間の問題だった。恵はαの子をひっそりと産んだ。
そんな中、国は戦争を始めた。αは国の宝だとしてはじめは出征に駆り出されることはなかったものの、すぐに人員を集められた。恵を虐げたかのαもまた、家を空けることを余儀なくされた。
長い時を経て、戦争は終結した。自国は頭が獣で首から下が人間という獣人達が統治する国の領土になった。当たり前だ。獣人は皆、αなのだから。最初から勝てるはずもなかった。
Ωの恵は子と共に家を追い出され、彼は遊郭に身を落とした。その後、発情期 が身体を蝕む度に子を宿し、兄弟が増えていった。
そして恵は末の子供が八つになる頃、客のαに身請けされ家を出ていった。子供達は捨てられた。残されたのは母の身請けの金だけ。
母の愛情を充分に受けることができなかった末の子供は悲しみのあまり母を恨んだ。しかし、幼くも生まれてから捨てられるまではしっかりと、愛情を注いでもらっていたのも確かだったのだ。
兄弟達はそれぞれ逞しく育ち、後に夫、そして妻を娶り、それぞれ子を成していった。
その間、恵のようなΩは生まれなかった。田井中の人間は願った。彼のような不幸なΩは生まれてはいけない。もう二度と。もう、二度と。
…………なのだが。
「なんっだ、これ……すげぇ盛られまくってんじゃねえかっ」
バチッと目を覚ました俺は独り言を呟いた。額に手を当て、はーっと長い溜め息を吐き出しながら、続けて唸るように言った。
「あー……ぜんっぶ、思い出したわぁ……」
俺こと田井中圭介 は覚醒した。
曾祖父……いや、陸郎! その母の話をどこから聞いたのだ、お前は! 九割以上がデタラメではないか! 当時八つにしてもお前の中の母はどうなっている!!
腸が煮えくり返るのを抑えながら、俺は寝巻き姿のまま、死の淵にいる陸郎の下へと向かった。
スパン! と勢いよく開けた襖の音に付き添っていた祖父、祖母、その兄弟達、そして俺の母親が驚く中、俺は陸郎に向かって思い切り怒鳴った。
「陸郎! お前はいったい母の何を見て育ってきた!! Ωが不憫で憐れだと!? 笑わせるな! 私が一言でもそんなことをお前に言ったか!?」
「えっ、け、圭ちゃんっ?」
「どうした、圭介!?」
「お父さんになんてことを!」
「圭介、やめなさいっ!」
周りの大人達が孫及び息子の突然の奇行に驚き、どよどよとざわめき出した。騒ぎを聞きつけた俺の父親が廊下から現れ俺を止めようとしたが、ビシッと指を突きつけて一喝した。
「だまらっしゃい!! 私は自分の息子に怒ってるんだ!!」
すると、三途の川を渡りかけていた陸郎がカッと目を見開き俺を見た。
「はっ……け、け……恵、母ちゃん……?」
ズカズカと中に入り、陸郎の胸倉を掴み上げながら俺は唾を飛ばして怒号した。
「私は生まれてから死ぬまで自分のことを不幸だと思ったことなんざ一度もない! αに身請けされてお前達を捨てたぁ!? んなことするか! 当時は節分の日だったろう! 子供ら相手に私は豆撒きの鬼を演じて外に出た! そしたらご近所さんに不審者扱いされて追っ払われ、逃げて転んで頭を打ってそのままおっ死んだだけだわ! これが恵の一生だ、どーだぁ!!」
早口で捲し立てるはなんとも情けない自身の死に方。周りは当然、ポカーン。そんな俺を止める者はもはや誰もいなかった。
俺は年老いた我が子を強く抱き締めると、陸郎も皺くちゃな手を震わしながらこちらの背に回した。俺達は熱い抱擁を交わした。
「母ちゃんっ……母ちゃん!」
「私ほど子宝に恵まれたΩもいない! どうせ死ぬなら母の愛を存分に受けてから死ねー!!」
「かあちゃーん!!」
ガクッ! と、力を落とした陸郎は俺の腕の中で眠りについた。永遠の眠りではなく、スヤスヤ~……の方の。
もう。こんなに皺くちゃになってしまって、この子は……。よくこの歳まで生きていてくれたものだよ。本当に頑張った、頑張った。
つるりとした頭を撫でてやりながら、俺は我が子を見つめフッと微笑んだ。しかし何やら、あちこちから視線を感じる。顔を上げると、親族という名のギャラリーが驚愕の表情で俺達を取り囲んでいた。あと主治医。
しまった。やり過ぎた。
「あ、あの……圭す……け?」
「圭介、なのよ、ね?」
「お前は爺ちゃんのためにっ……一芝居を打ってくれたというのか! ううっ……!」
「構わんさ。我が息子の為だ」
泣き出し始めた祖父に、俺は腕を組みつつ言い切った。そんな俺に、先ほど俺を馬鹿にした従兄弟二人が化け物でも見たかのような顔で「ヒイッ」と後ずさる。陸郎に続く代表者である祖父を前にこんな偉そうな態度を取ったものだから、慄かない方が無理な話か。フン。こいつらはΩをクズでのろまな存在だと散々見下してきたからな。いい気味だ。
突如、豹変した俺を前にして驚きのあまりに言葉を発せない周りを代表し、祖母がそっと手を上げつつ俺に尋ねた。
「それであなたは? 口振りからして、もしや本当にお義父さんの……?」
そうだな。つい今しがた前世の記憶が戻った俺だ。元の俺のことは知っていても、「私」に関して名乗らないわけにはいかないだろう。
俺は陸郎の上に被さる掛け布団を直してからその場で仁王立ちすると、自身の前で腕を組んでから田井中家の全員に向けて自己紹介を始めた。
「田井中圭介。十八歳。Ω。それから現当主である田井中陸郎の母であり、今日まで田井中家で語り継がれてきただろう、不幸で不憫でかわいそ~なΩこと田井中恵の生まれ変わりだ。改めてよろしくな!」
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