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狼の里中宗佑さん 1
獣人。文字通り、獣の人。
その顔は犬だったり、虎だったり、狼だったりと様々で、首から下は人間と変わらない身体をしている、二足歩行の生物。そしてその姿を有して生まれてくる者は必ずα性だ。
百年以上も昔のこと、俺達の国はこの獣人達が統べる他国に喧嘩を売り負けてしまった。自国は獣人達の統べる国の領土となったが、後に独立を宣言。現在は数こそ少ないが彼らも俺達人間と入り交じって普通に生活をしている。植民地ではあったものの、隷属的な扱いはなく、むしろ良好な関係を築いている。
俺がこれからお世話になる里中宗佑さんは狼の獣人。つまり顔が狼。首から下はモフモフしていても人間と同じ身体。でもモフモフしているからこそ、その触り心地は抜群だ。
モフモフがあるから大丈夫。なんたって狼だ。人にはないモフモフの耳もあるし、尻尾だってきっとモフモフ。触り心地はまるで雲かわたがしのよう…………って、あ~! 駄目だっ! 獣人だけは無理。ほんと無理っ! 何度自身に言い聞かせても、恵の頃の怖い記憶が蘇ってしまう。
前世の記憶を持つ俺にとって獣人は自国を占領した恐ろしい生き物だ。恵が身を寄せていた娼館にも、支配者だった獣人が顔を出すことがあった。実際、客として取ったこともあるけれど、アレは無理。もう二度とごめんだ。アレのサイズが規格外だとか、性欲が底無しだとか、そういうことじゃなくて、とにもかくにも顔が怖い。だって狼だぞ? 狼の顔をした奴が俺を組み敷きその上でアンアンしていても、こっちはいつ食われるのかとアンアンどころじゃなかったのだから。ラブドールと言われようがマグロと言われようが本能的に身体が硬直してしまうのだから。
ああ、駄目だ。当時の記憶が鮮明すぎる。怖い、怖い、怖い。獣人だから牙は仕方がないのだとしても、爪ぐらいは整えられるだろう。どうして爪を人間用に整えてこないのだ、奴らは。あれで身体中が傷ついて、酷い時は一週間も客が取れず、箪笥で育てたもやし生活だった。だから生まれ変わった圭介は注射の類が苦手なのだ。圭介も獣人に対して苦手意識はそこそこあったけれど、恵の記憶が合わさった今……これはもはやトラウマだ。
せめて里中さんの身体が他の獣人よりも一回りほど小さければ、ワンチャンス! 何とかなるかもしれない。そう、ワンチャンスなだけにワンちゃんくらい愛嬌ある顔ならイけるかもしれない。性格も恐怖が吹っ飛ぶくらい明るくフレンドリーなら俺も心を開けるかもしれない。
田井中本家を出てから電車を乗り継ぎ、歩いて五分ほどしたところで、俺は里中宗佑さんの住む高層マンションへと辿り着いた。頼むから里中さん。明るくフレンドリーかつ可愛いワンちゃん顔であってくれ!
「ああ、君が田井中圭介君だね。私は里中宗佑だ。ここまで来るのに道に迷わなかったか?」
「ええ……お、大きなマンションのお陰で、す、すぐにわかりました……こっ、こん、にちは……里中、宗佑……さん」
ついに里中さんとご対面。うわ~……どっからどうみても肉食獣の狼だ。俺より一回りも二回りも身体がデカいぞ。そして大層、勇ましくも精悍なお顔立ちであられて……
こっえええ!
懸命に口角を上げるも、この引き攣る笑顔を里中さんはどう思っただろうか? もっと自然にしたかったけれど、ごめんなさいっ! 想像以上に貴方は狼です!
セキュリティが高くて勝手に入ることのできない、この大きく立派なマンション。ゲート前にあるタッチパネルで里中さんを呼び出し、わざわざ出迎えてもらったわけだが、里中さんがこのマンションを住処にしている理由に納得した。
里中さんは二メートルとはいかなくとも平均的な成人男性と比べれば随分と背の高い大柄なお方だ。脚なんてまるでモデルみたいに長い。また着ている服の上からでもわかる精悍な身体つきは同じ男でも惚れ惚れとしてしまう。グレーのモフモフはありつつも筋肉質そうなその体躯は一日やそこらで出来上がるものじゃない。つまり、これだけ立派な身体なら、ここみたいに大きなマンションでないと身が収まらないのだろう。
そしてその身なりもちゃんとされている。まだ仕事中だったのか、スーツを着ていた。素人目からでもわかる、オーダーメイドの上質なダブル。身体がグレーだから深みのある濃いブルーのそれはとてもよく似合っている。履いている靴も白の光沢が眩い革靴だ。さすがはαというべきか。俺にはとても勿体ないお方だよ……首から下はな。
問題はこの顔だ。ジッと俺を見下ろすアンバーの瞳がどうしても獲物を狙うそれにしか感じられない。別段、目つきが鋭いわけじゃないのだろうけれど、狼だから凛々しく見えてしまうのだろう。口も品よく閉じていらっしゃるけれど、俺の角度からはキラリと見えるのだ。鋭く白い牙が。あれで噛まれたらきっと痛いどころじゃ済まないだろうな……って、駄目だ、駄目だ。怖いところばかりを目につけてしまっては。そういうのは宜しくないぞ。良いところを見よう、良いところを! そうそう。毛並みも艶やかで綺麗だし、香水でもつけているのかな? さっきからいい香りがする。それから、他の獣人と比べたことがないからはっきりどうとは言えないが、きっと里中さんは格好いい部類の顔立ちなのだろう。いや、格好いいはず! はず、なのだけれど……
「圭介君」
「はっ、はいっ!」
「顔色が悪い。ここまでの移動で疲れたか? すまない。すぐに部屋へ案内しよう」
「は、い……」
ナチュラルに俺の肩に触れた里中さん。これはエスコートだ。でも俺は、あからさまに身体を硬直させてしまった。ビクッと肩を震わせ、顔から笑顔を消してしまった。
これには里中さんも気づいたようで、すぐに俺から手を引き離すと、先にエレベーターへと行ってしまった。
しまった……。無意識に反応してしまったにせよ、とても失礼な態度を取ってしまった。出会ってから早々、俺はやらかしてしまったのだ。
荷物を入れたデイバッグを手にしてトボトボと里中さんの後ろをついていき、俺は広いエントランスからエレベーターホールへと移動する。外からはわからなかったが、エントランスにはコンシェルジュの女性が二人もいらっしゃった。マンションの立地も良くて駅近となれば、上層階じゃなくとも部屋の単価は高いだろう。
女性がニコリと愛想のいい笑顔を向けてくれたので、こちらもペコリとお辞儀する。怖がっているのは俺だけか。獣人の入居者は里中さん以外にもいるのだろう。
間もなくしてエレベーターが到着すると、里中さんを先頭にそれへ乗り込んだ。エレベーターは扉が閉まると、静かに稼働を始め上昇した。あれ? 里中さんは階数ボタンを押していないのに勝手に動くぞ? 昨今のエレベーターって人を認識して自動的に目的地まで運ぶのか? すごいな!
仕組みがわからない俺は素直に感動していた。それもそのはず。友達がいないのだから、マンションへ出入りすること自体が殆どなかったのだ。心地よいBGMが流れる中、エレベーターが「十二階です」と優しくアナウンスをした。そしてゆっくりと扉が開かれると、やはり里中さんが先頭に降りて俺達は最奥の角部屋へと向かった。
里中さんが扉の取っ手にあるボタンを押すと何かが作動し、カチリと音を立てて扉は解錠された。鍵を挿し込んだ様子はない。実家の築二十年の戸建てとは勝手がまるで違う。またもや感動しつつも通されたのは解放感溢れる広い部屋だった。
「ふわ……綺麗」
元の間取りはわからないけれど、わざわざ壁を取り払ったのだろう。2LDKだけどリビングがとても広く、ゆとりを感じられる部屋だ。里中さんの身なりから部屋の中も綺麗なのだろうと予想はついたけれど、決して華美な感じではない。物はきちんと整理されていて、掃除も行き届いている。ご自身は多忙だろうし、業者に頼んでいるのかもしれない。余計な物でごちゃごちゃと溢れかえっている実家と違って無駄なものはなく、しかし観葉植物などの緑もしっかり取り入れてある。あとテレビ。何インチあるのだろう。シアターか何かかというくらいにデカい。身体が大きいとテレビも比例して大きくなるのだろうか? そんな馬鹿な。
俺が突っ立ったまま、キョロキョロと辺りを見渡していると里中さんは中央にあるソファへ促した。
「そこにかけなさい」
「はいっ」
声をかけられただけだというのに、いちいち姿勢を正してしまう。そんな俺を見て里中さんはついに溜め息を漏らした。
またやってしまった。俺はソファへ向かうとデイバッグを足下に置き、角の方にちょこんと腰を下ろした。さっきのことといい今の態度といい、失礼にもほどがある。
ギュッと拳を握り意を決した。里中さんに「ごめんなさい」と謝りたかった。顔を上げて彼を見ると、バチッと目が合った。
そこには怖い怖い狼の顔。俺の目にそれが飛び込むと、ヒュッと喉の奥が窄んで息が詰まった。声が出ない。詫びたいのに、それができない。パクパクと餌を求める金魚のように俺は口を開閉させる。
すると、里中さんはソファには座らず、そっけない様子で俺に告げた。
「少し空ける。もてなしもなく悪いが、適当に過ごしていてくれ」
「えっ?」
そして彼はスタスタと出ていってしまった。俺はだだっ広いリビングに一人、取り残された。
「最低だ……俺」
ボスッと。ソファの上のクッションに顔を埋めた。
何故、俺がこんなにも獣人が苦手なのか。これにはもう一つ、理由がある。
戦前、恵が奉公に行った先の資産家のα。姓は忘れたが、名前を正臣 と言った。もちろん、人間の男だ。
彼は物静かな人だった。俺を迎えるも使用人として何かを指示するわけでもなく、好きなように過ごせばいいと放っていた。はじめはΩの自分に関心がない、もしくは蔑んでいるのかと心苦しく感じたものだが、抑制剤を投与したにも関わらず発情で苦しむ俺の姿を目にして、彼は俺の発情期が治まるまで抱いてくれた。後から聞いたことではあるが、放っていたのは俺が美しすぎてどう接すればいいのかわからなかったかららしい。普段滅多に表情を変えない彼が耳を赤くさせ、気まずそうに教えてくれたことが可愛く感じられた。
精悍で凛々しくて、周りが放っておかない美丈夫だった。だからこそ、隣に立つ俺は妬みの対象になった。Ωの癖にと何度も罵られた。その度に彼は守ってくれた。
優しくて、強くて、賢くて……でも少しだけ不器用で。そんな彼に俺は惹かれていたのだろう。短い間だったものの、彼と過ごす時間は家族とはまた違う尊いものだった。
しかし時代が悪かった。彼は戦争へと出征を余儀なくされた。αばかりの獣人相手に戦争を起こしたのだから、当然と言えば当然だった。当初は人間でもαだからと正臣は外されていたものの、兵が足りないのだと赤い紙が届いた。
ならばせめて番にと……それは俺の口からは言えなかった。Ωの俺が彼の家で待つことなど、周りが許さなかったからだ。
結局、戦争が終わっても彼は帰ってこなかった。俺は家を出ていくしかなかった。
大切なものを奪われた。その記憶がはっきりとある今、里中さんがどんなにいい人であっても受け入れがたいものは受け入れがたい。
俺は正臣が好きだったのだろう。当時は好きになっては駄目だと一線を引いていたから自覚がなかった。しかし、他の人と身体を重ねても、抱かれることで満たされたと感じたのは後にも先にもあの人だけだったと思う。
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