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狼の里中宗佑さん 2
それにしてもこの部屋、とてもいい匂いがする。爽やかさがありつつも、仄かに甘みを帯びるそれは里中さんが身体につけていた香水と同じ香りだ。顔は怖いと感じるのに、この匂いは緊張で張り詰めた俺の気持ちを幾分も和らげた。何という香りなのだろう。香水やコロンの類に明るくないから説明しようにも抽象的な表現しかできない。加えて人の温かみも感じられる。きっと里中さん自身の匂いとも、相性がいいのだろう。
今、座っているソファのクッションからも香りがより強く感じられる。なるほど。人が住んでいれば家具にもそれが染みつくのか。里中さんの家なのだから、クッションの一つや二つに匂いがついていてもおかしくはない。
俺はおもむろにクッションを手に取ると、ごく自然にそれを自身の鼻先へ擦りつけた。人様のお宅に上がり込んで真っ先にやることがこれとは……俺は見境ない匂いフェチだったらしい。里中さんへの非礼を反省するつもりが、本人がいない隙にこの甘美な香りにうつつを抜かすなど、人としてあるまじき行為だ。
しかし何故だろう。この行為を止められない。俺はこの馥郁とした男の残り香に骨抜きにされてしまっている。
「ん、はぁ……好、き……」
漏れた声が自分のものだと気がつかないまま、俺はクッションを抱きかかえてうっとりとそれを見つめる。好き? このクッションが? 形が特別良いというわけでも、抱き心地が格別だというわけでもなく、どこにでも目にするようなしかし質の良いそれに、どうして俺は見惚れてしまっているのだろう?
だんだんと思考が蕩けていくような感覚に陥る。何だろう、これは。久々ですっかり忘れてしまっているが、昔これと似たような感覚にずっと苛まれてきた気がする。
途端にズクン、と下肢が熱くなった。下肢、というよりは身体の中心。臍の下の股間とその奥が、じんわりと熱を帯び始めたのだ。
「はあっ……」
人様の匂いを嗅いで身体が発熱するなど、どうかしている。しかし右手は自然とボトムのベルトを解いていき、前を開けて露出させた自身の陰茎をこの手に包みこんだ。嫌だな。硬くなっているじゃないか…………え? 硬く、なっている?
「はあ……ん、はあっ……あ……」
熱を帯びてから苦しさが増していく俺の身体。モゾモゾと動いて自分の楽な体勢を探すも、それが何かわからない。
落ち着け。落ち着くんだ、俺。これは以前にも経験している。いや、この身体では初めてのことだが、俺はこの感覚を知っている。懐かしくも、あまり思い出したくはない、この感覚を。
そうだ。これは病気ではない。人目を憚ることなく他人の匂いを嗅ぎ、身体が勝手に欲情してしまうこれは、まさしくあれだ。いや、あれしかない。
発情期だ。
「はあっ……う、うぅ……」
おいおい、嘘だろう? αの家に来て早々、このような状態になってしまうなど。そろそろ来るとは思っていたが、まさかこのタイミングで? 粗相がないように、あらかじめ抑制剤を飲んできたというのに、この時代の薬も効かないのか?
いくら俺がΩだと知られているとはいえ、あんまりだ。ことごとく人としての尊厳を踏みにじる己の性に腹が立つ。
それも里中さんを怒らせておきながら、謝りもせずに勝手に発情するΩなど、最悪もいいところ。これでは田井中へ戻るのも時間の問題だ。あれだけの啖呵を切って家を出たというのに、喜ぶ陸郎の顔が容易に浮かぶぞ。
……なんて、頭の片隅で思っていても、発情した身体は治まらない。俺は反り立つ陰茎をぎこちなくも上下に扱き始めた。
「んぁ……ふ、ぅ……」
ああ、もう。身に着けている服が邪魔だ。後ろも弄りたい。すでに秘部から粘液が溢れ始めて、下着が湿ってしまっている。気持ちが悪い。身体が火照って堪らない。目の前が霞んで、頭は脳が蕩けるようだ。
何も考えられない。ただぐちゃぐちゃに、俺の身体を犯して欲しい。
「はあ……はあっ……まさ、おみ……」
この口はかつての男の名前を呼んでいた。もう正臣はいないというのに、無性に会いたくて会いたくて堪らない。急に思い出したからだろうか。こんなのじゃ足りない。気が狂いそうだ。
正臣の感触を確かめたい。正臣の体温を感じたい。正臣の匂いを楽しみたい。
正臣……どうして俺を置いていっちゃったんだよ、正臣いっ……!
「んっ、ぅ……んんっ!?」
ソファの上で、苦しみながら喘ぐ俺に突然大きな何かが被さった。何だ? と見上げようにも、溢れる涙で前が見えない。
混乱する中、俺の唇に柔らかい何かが触れた。これまた何だ? と思うのと同時に、温かいそれは擽るように俺の唇を蹂躙する。
「ん……んん、ぅ……」
何だろう、この感触は。初めて受けるものなのに、俺はこれを知っている気がする。
湿ったものが口の中へと侵入し、蛇のように俺の舌へと絡みついた。同時にザラリとした感触が柔らかく吸いつくからか、とても気持ちがいい。
「んぁ……あ、ん……」
ちゅくちゅくと唇を吸われつつ、まるで舌を食べるように何かに貪られる。僅かに開く唇の隙間から酸素を取り込み呼吸をするも、絶え絶えなこの苦しい感じが気持ちいい。
ああ、俺をもっと食べて……。
目の前にある何かに腕を伸ばすと、それはいいよと俺を受け入れる。指の先がそれに触れると、滑らかな人の肌を感じた。
俺は今、キスをされているのか。
ようやくその行為の内容がわかると、俺は本能のままその人を引き寄せ、深い深いキスを繰り返した。覆い被さるその人は拒むことなく俺の我が儘に付き合ってくれた。
新たに目に浮かんだ涙が瞬きと共にポロポロと零れた。まだなお、潤み霞む視界だが、俺とキスをする相手の顔が少しだけ鮮明になった。
「ん……まさ……おみ……?」
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