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第1話
プロローグ
あれ? ここどこだっけ?
小学校一年生の愛翔(あいと)は、ぐるっと周りを見渡した。
重いランドセルの中味が愛翔と一緒にぐるんと回る。ランドセルの重みでよろけた足を踏ん張って、愛翔は改めて自分のいる場所を確かめようとした。商店街をぶらぶらと歩いて気がつくと、愛翔の前にプラタナスの並木道が続いていたのだ。
こんな道、あったっけ……?
商店街を過ぎて坂道を登ると、素敵な建物や広い庭、かっこいい犬を散歩している人たちを見かける「こうきゅうじゅうたくがい」に出るはずなのに。迷子になったのかな……?
学校帰り「寄り道しないでまっすぐ家に帰りましょう」と先生は言うけれど、愛翔は家に帰りたくなかった。
だって、帰ったって誰もいないんだ。お父さんは帰ってきたと思ったらまた出ていっちゃったし、ママハハ(男のオメガ)のジュンさん(こう呼べと言われている)は、朝から「デート」だと言って出てったし、ぼくの家がそんな感じだから、友だちは、「愛ちゃんとこには遊びに行っちゃだめ」って言われている。一度、みんなでゲームしてたら、ジュンさんがお父さんとは違う男の人を連れて帰ってきたからだ。
だから愛翔はいつも、寄り道をして帰ることにしている。途中までは友だちと一緒に帰らなければならないが、そこから家までうんと遠回りをするのだ。
寄り道ルートはいくつかあったが、今日の商店街コースは愛翔の最もお気に入りだった。
パン屋さんの前を通れば焼きたてパンのいい匂い、八百屋さんの店先には鮮やかな野菜たち、お肉屋さんがコロッケを揚げる時間だし、花屋さんの前ではミニひまわりやバラたちが「バイバイ」と言うみたいに、顔をこちらに向けている。愛翔の家にはないものばかりだ。
お父さんがいる時はお店に食べに連れてってくれるけれど、自分は食べない。ジュンさんは夜はデートで忙しいから、ご飯は作っておいてくれる。美味しいけど、ひとりで食べるのはつまらない。
だから、商店街を歩きながら、買い物しているところを想像するのが好きだった。隣には誰かがいて……誰かはわからないけど誰かがいた。だが今、振り向いても商店街は見えない。なんだかぼやんとしているのだ。
目の前には知らない道。だが、愛翔は怖いと思わなかった。それよりも新しい道を見つけてワクワクしていた。プラタナスの葉が「こっちへおいでよ」とそよいでいる。
「よーし」
愛翔は腕を大きく振って元気に歩き出した。
並木道は、両側とも高く白い壁沿いに続いていた。壁の向こう、工事でもしてるのかなと思いながら歩いていくと、曲がり角が見えた。面白くなって角を曲がる。するとプラタナスはもうなくて、白い壁がずうっと続いているだけ。
舗装されていた道も土の地面になり、壁の下側に沿うようにして、小さな青い花をつけた可愛い草が生えている。だから壁に囲われていても怖くなかった。すると、また曲がり角に行き当たった。
(迷路みたいだ!)
愛翔はランドセルを上下に揺らしながら走り出した。
もう、重さも気にならない。次の角も曲がって突き進む。道の終わりはどうなっているんだろう。他の町への近道? また同じところに出る? まったく知らない場所に出るかもしれない。その先には、素敵なものが待っているような気がするのだ。
やがて、遠くに山が見え始めた。霧がかかった、真っ黒な山だ。一方、壁には次第にヒビが入り始め、可愛い草の代わりにツタが這うようになっていた。
少し不気味だ。だが、どこからか甘い匂いがしてきた……。というか、ジュンさんがつけている香水が、もっと濃くなってちょっとむせそうな。と思ったら、突然、バラの蔓でぐるぐる巻きになった壁に行き当たった。壁というより、石でできたドアみたいな感じだ。
バラは、いつも商店街の花屋さんで見ているけれど、もっともっと大きくて、赤だけど黒みたいな色をして、強く甘い匂いを辺りにまき散らしていた。
さすがに、赤黒くて棘の鋭い大きな蔓には不気味さを感じたが、その時、微かに聞こえたのだ。
誰かが泣いている。ひっくひっくとしゃくりあげながら、とても哀しそうな声で。大人じゃない、子どもの泣き声だった。
愛翔は気がついたらバラが絡んだドアを開けて、中に飛び込んでいた。泣き声はだんだん近くなる。
「おーい、だれかいるの?」
迷子だったら助けてあげなくちゃ。淋しくて怖がっているような泣き方が気になった。愛翔は淋しい子どもだったから、同じような気持ちの他者に敏感だった。
「ここ、ここにいるよ! たすけて!」
呼びかけに、泣き声交じりの声が答える。泣いているけれど、澄んだきれいな声だった。
「いまいくから、まってて!」
愛翔は走った。周囲には赤黒いバラの樹がたくさん植わっている。これを「バラ園」と呼ぶことを愛翔は知らなかったけれど、密集したバラの樹は、愛翔が近づくと、道を明け渡すように左右に割れる。愛翔はそれを不思議だとは思わなかった。そして――。
「だいじょうぶ?」
はあはあと息をつく愛翔の目の前には、より大きな樹に蔓でぐるぐる巻きにされた子がいた。銀色の長い髪、涙をいっぱい浮かべた不思議な色の目。そして蔓で巻かれた下でスカートがふわふわと揺れている。女の子だ。
「あなたはだあれ? どうやってここへきたの? おとうさまでさえ、このバラえんにはいることができなかったのに」
不思議そうに問いかける顔が可愛い。少し小首を傾げた仕草に胸がきゅんとする。学校にも、アイドルにも、こんなに可愛い子はいない。少し照れて、愛翔は早口で答えた。
「まがりかどをたくさんまがってきたんだ」
「まがりかど?」
愛翔はランドセルを下ろして、小さなカッターを取り出した。今日、図工の授業があったのだ。
刃をめいっぱいに出して、女の子に巻きついていたバラの蔓を切っていく。太いのは少し時間がかかったけれど、女の子は自由の身になって愛翔の前に降り立った。不思議なことに、蔓を切ったとたんに、不気味だった赤黒いバラは塵となって消えてしまった。
「ありがとう!」
女の子は愛翔に飛びついたかと思うと、唇にキス。驚いて、愛翔は腰を抜かしそうになった。
「ふふっ」
そんな愛翔の様子を彼女は楽しそうに見ている。
「あなた、まじゅつがきかないんだ。ふしぎなひと……」
女の子の不思議な目の色を何色と言っていいのか愛翔にはわからなかった。だが、じっと見つめられるとドキドキしてしまう。
「きみのいえはどこ?」
「あの、ずっとむこう……そうだ!」
彼女が指差す先はずっと向こう、緑の野山だった。だがその見え方は、まるでビニールのカーテンがかかったみたいに微妙に歪んでいる。
「そのぶきで、これをきることはできる?」
カッターナイフを武器だと言う。面白いことを言うなあ。愛翔のカッターナイフは、そのビニールカーテンみたいなものを、いとも簡単に切り裂いた。
「すごい! ありがとう!」
彼女は目を輝かせ、愛翔の手をぎゅっと握った。愛翔もドキドキしながら握り返した。
「また、たすけにきてくれる?」
「いつでもいくよ! すぐによんで!」
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