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第2話

 今、会ったばかりなのに、すごくドキドキするんだ……。どうしてだろう。女の子も同じことを思っていたらしく、少し赤くなってにこっとうなずき、淋しそうに言った。 「もっと、いっしょにいたいけど、もういかなくちゃ」  そして、ビニールカーテンの裂け目から外へ出ながら、彼女は手を振る。 「やくそくだからね! ちいさなゆうしゃさん!」  勇者さん……素敵な言葉を残して、彼女の姿はやがてビニールカーテンの向こうへと吸い込まれるように消えていった。愛翔は胸を高鳴らせながらその様子を見送っていた。絶対にまた助けに行くんだ。あの子がぼくを呼んだら。 「あっ!」  そこで愛翔は気がついた。互いに名前を言わなかったことを……。      1 「うー暑っ」  社屋のエントランスから出た周防(すおう)愛翔は、慣れないネクタイを緩め、空を仰いだ。短い梅雨が明けたかと思うと、猛暑が続いている。会社訪問やインターン、面接の日々、就活生に夏休みはない。  曲がり角を曲がって不思議な体験をしたあの日から十五年、愛翔は二十二歳、大学四年生の夏を迎えていた。 就活用に短くカットした染めていない黒髪に、意志の強そうな眉、硬質な表情は常に意識してのものだ。背は低くないけれど、華奢だった身体は陸上部とジムで鍛えてきた。十歳でオメガだと認定されてから、身も心も自分なりに男っぽくあろうとしてきたのだ。……あまり、外見的に効果はなかったが。  男性オメガは、ほぼ皆が中性的だから、男女に継ぐ第三の性だなんて言われている。男性、女性、そしてそれぞれがアルファ、ベータ、オメガに分類されるこの世の中で、俺はオメガだけどそうじゃない、俺は中性的にはならないと愛翔は思っている。それは自分なりのアイデンティティーだった。  男女の他の三つのバースは、十歳くらいに検査で明らかになる。亡くなった母はオメガだと聞いていた。ちなみに、放浪癖のある父親についてはバースも知らない。一応、父親の姓『周防』を名乗ってはいるが。  愛翔は、自分はベータかオメガだろうと思っていた。  どうかベータでありますように……。願いも虚しく、オメガのバースが確定してからずっと、愛翔は自分がオメガであることが大嫌いだった。絶対に男に抱かれたくないし、発情もしたくないし、誰の子どもも産まない。  愛翔がそう思うのは、父の後妻、ジュンの影響が大きい。  ジュンは父親がふらりと連れてきた男性オメガだ。子どもの頃は、ママハハのジュンさんはきれいだから男の人にも女の人にももてて、デートで忙しいんだ、くらいの認識だった。だが次第に、恋愛に奔放で夫がありながら(その夫は霞のような存在だが)血はつながらないとはいえ、子どもをほったらかして恋人を取っ替え引っ替えする彼にうんざりするようになったのだ。  時には修羅場にも、R18な現場にも遭遇したし、「発情期のセックスは最高よ」なんて語られて、愛翔はそんな、ジュンみたいになりたくないと思うようになっていった。  もちろん、全ての男性オメガが彼のようなことは断じてないけれど、たまたま身近にそういうキャラがいたことが――恋愛依存症で、セックス大好きなことを除けば、まあ、気のいい性格ではあるのだが――愛翔にとって反面教師になっていったのだ。  ジュンは女装していて、いずれ性転換手術を受けて女性になりたいのだと言っていた。  そして愛翔は、さらに高額なお金がかかるバース転換手術を受け、ベータになりたいと願っていた。  バース研究は進み、今では性転換だけでなく、バース転換手術も可能になった。だが、保険適用外だから、莫大な費用がかかるのだ。  そのために、就活で絞り込んでいるのも高給な大企業ばかりだ。念入りに対策を練り、大学の成績も問題なかった。だが、最後には落とされる――だから四年生のこの時期でも内定が取れないのだが、それもこれも、自分がオメガだからだと思えてならない。  どこの企業もバースは問わないとうたっているけれど、実際、内定を勝ち取っていくのは、アルファの者が多いのだ。発情期のあるオメガは、その期間、仕事にならないから……藥を飲んでいても、周りにフェロモンをまき散らすこともあるから――そんな、旧態依然の考えが水面下で生きていることを感じるのが現実だった。 (くそっ、卑屈になるな)  愛翔は自分に喝を入れ、ペットボトルのお茶をぐいっと飲み干す。木陰のベンチに座り、ほっとひと息つくと、愛翔はいつも思い出してしまう。七歳の頃の不思議な体験、そこで出会った女の子のことを。  それは、淋しかった子ども時代にも、オメガである自分を認めたくなくて、懸命に戦っている今も、唯一のほんのりと甘い思い出だった。  バラの蔓で縛られた銀の髪の女の子。ちゅっと可愛い音がした、幼いファーストキス。ありがとう、また助けに来てねと言われた、勇者さんなんて呼ばれた……そんな言葉をもらったことなどなかったから、嬉しくて嬉しくて。  彼女と別れてから、どうやって元の場所に戻ったのか、愛翔には記憶がない。気がついたらあの商店街の花屋の前にいて、そこにあるバラはみな、ピンクやオレンジの明るい色ばかりだった。赤黒いバラなんてどこにもなかった。  だから、あれは夢を見ていたんだと最初は思った。だが違ったのだ。バラの蔓を切ったカッターナイフは、刃がぼろぼろで使いものにならなくなっていたのだ。 (夢じゃ……ない?)  それから、愛翔の中であの冒険は大切な宝物になっていった。あの子が「助けて」と言う日が来たら、俺はきっとまた、彼女に会えるんじゃないかと思ってしまうほどに。神聖化された、淡い淡い初恋――。  汗だくになって就活しながら、それはあまりにもおとぎ話だけれど、現実が厳しいからこそ、思い出は愛翔の中でキラキラと輝き続けていた。  そんなある日。  コンビニでのバイトを終えて家に帰ったら、ママハハのジュンがいた。  ここ三年ほど、彼氏と旅行だからと言って出ていったきりだったのだが、彼はこうしていつも突然帰ってくる。愛翔にとっては血のつながらない母というよりも、ただの同居人という感じだった。住人には違いないから、当然好きな時に家に出入りできる。 「アイちゃん、久しぶりー」  大きな花柄が飛んだド派手なワンピースを着て、真っ赤なルージュの口端をきゅっと上げて笑う。男たちはこの笑顔に弱いらしい。彼の女装はいつも完璧だったが、久しぶりに会うせいだろうか。なんだか雰囲気が違う。さらに女性らしく、身体の線がまろやかになったというのか……。  リビングには大きなキャリーケース。海外にでも行っていたのか。  だがジュンが帰ってくるのは、必ず何かの節目の時なのだ。恋人と別れたとか、新しい男ができたとか。

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