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外伝「ある異形の告解」前編
毎晩、夢を見る。
戻らない過去が私を苛み、口を開いた闇の底へと我が魂を誘 う。
血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。
狂おしいまでの飢えと渇きが理性を蝕む。
閉ざしたはずの記憶が囁く。
──許さない
***
幾度目かの悪夢から逃れ、目を覚ます。
温もりに抱き留められていると気付き、ほっと息をついた。
裸の男……ヴィルは私を抱き締めたまま、間抜け面でいびきをかいている。
汗に塗れた身体を起こす。寝ているヴィルの腕を振りほどき、静かに寝台から抜け出した。
……主よ、お赦しください。
私はまた、男に抱かれました。
罪深い存在に堕ちたことは、私自身嫌というほど理解している。……理解しているが、もう、後戻りすることなどできない。
ずきん、と身体の内側が痛む。ヴィルには伝えていないが、傷は癒えきっていないらしい。表面上は「傷痕」と化している以上、体内の損傷だろうか。
地下室の中は光がほとんど届かないが、私は夜目が効く。……正確には、効くようになった。
ベッド脇のテーブルから畳んだカソックを手に取り、着替えた後にロザリオを首から提げる。
ヴィルが起きた時のため、マッチを摩ってランプに火を灯しておいた。
戸を開けると、光に目が眩 む。
こんな早朝に目を覚ましたのは久方ぶりだ。……日が高くなる前に、祈りも済ませねばなるまい。
「う……っ、ゲホッ」
井戸に向かい、水で流せる位置に血を吐く。
胸と腹を特に酷く刺されていたと、嫌でも思い出す。消化器官が傷ついていたのだろう。夕食のパンが硬かったが……パンひとつ、まともに食すことすらできないとはな。
スープ程度なら飲むことはできるが、それでもヴィルにより多く食わせた方がいい。……私の傷を気にするよりも、彼の健康体を維持した方が効率的だ。
蛮行により生死の境をさまよって以降、私は血を飲まなくては生きられない身体となった。
人間の体液を摂取すれば、傷付いた身体が癒えていくのが嫌でもわかる。……だからこそ恐ろしい。
戻れなくなるのではないか、と、考えてしまうのだ。
……愚かなことだ。
後戻りなどできないと、とうに思い知ったと言うのに。
***
ヴィルが見つけた廃墟の近くには、同じく廃墟と化した修道院があった。Michal……? と門扉に書かれているのが辛うじて読み取れるが、古い建物は天井すらも崩れ落ち、聖母子像もわずかに足元が確認できるかどうか、といった状態だった。
エルザス=ロートリンゲンをさまよっている以上、似たような場所は嫌でも見かける。無論、戦禍 の爪痕の中でも生活する者たちは存在しているし、時折出会うこともある。
祈らねばなるまい。
善き者たちが、とこしえに幸福であるよう。
祈らねばなるまい。
悪しき者の魔の手から、彼らが守られるよう。
祈らねばなるまい──
──ギロチンの音が聞こえる……
母の今際 の声が、遠い記憶を呼び覚ます。
あれは、祖父の処刑が決まった日のことだった。
虚ろな瞳で、母は窓から飛び降りた。最期までうわ言のように繰り返していたのは、いつもの口癖だった。
祖父……正確には母が養女であったため、本来私にとって大伯父に当たる彼は、幼い頃より日光があまり得意でなく、他の者たちに比べ力が強かったと聞く。
生まれながらの吸血鬼である祖父も、若い頃は血液をそこまで積極的には欲していなかったらしい。しかし母が生まれた頃、各地で起こった革命により巻き添えを食らった祖父は瀕死の重傷を負い、そこからは血液なくしては生きられなくなった。姪であった母も家族をほとんど失い、祖父は心を閉ざした彼女を養女として引き取った。
人目を避けるよう隠居していた祖父は、少なくとも私、および私の兄弟達にとっては優しい人だった。
慈悲深く、懐も深く、貿易商人として忙しくしていた父と心を病んでいた母に代わり、私達に多くのことを教えてくれた。
そんな祖父が裁かれたのは、突然のことだった。
最初に裁きの場に呼ばれたのは、没落貴族であったからか、「吸血鬼」であったからか……詳細は分からない。父は洗礼を受けていたが、父方の民族は「救世主を殺した」との謗 りを受けていた。……それ故に、何か調査が入ったのかもしれない。
「血を啜る怪物」として祖父が処刑されると決まったのは、程なくしてのことだった。
ギロチンにかけられた祖父は、首と胴体が分かたれた後、日光に炙 られて灰となるまで死に至らなかったと言う。「家族に会わせて欲しい」……そう何度も叫んでいたと、憔悴 して帰ってきた兄から聞いた。
「愛している。健やかに暮らせ」
兄から伝え聞いた、祖父の最期の言葉だ。
祖父は最期まで誰も呪うことなく、家族を愛した。
……彼は、決して処刑されるべき「怪物」などではなかった。
翌年、父が過労によって命を落とし、兄が跡を継いで商人となった。
私は何としても祖父の汚名を晴らさねばならなかった。苦難に陥ったダールマン家のために、兄が少しでも心安らかでいられるように、まだ歳若い弟や妹が実り多き未来を得られるように……私は、できるだけのことをするつもりでいた。
神学の道を志したのは、そのためだ。
……身体の内側が痛みを訴える。
追想の中、身を灼 くほどの怒りが一瞬、全てを覆い尽くす。
──穢れた血が神に仕えるとは
──自らが司祭になれると勘違いしているのか?
──ああ……うちの教会に来るなら面倒を見よう。……純潔の方は保証できないがね
魂の腐った、名ばかりの聖職者どもの言葉だ。
耳を貸してはならない。
私は中傷に耐え、学び続けた。私は決して屈しなかった。
その成果もあり、エルザス=ロートリンゲンのとある教会で、師と仰ぐ司祭に出会うことができたではないか。
……決して、憎しみに身を委ねてはならない。
その司祭は荒れた世を憂い、人々の安寧を心の底から祈っておられた。
そのためにしばしばベルリンなどの大都市にも向かい、政府の要人と話す機会まであったと聞く。
忙しい師に代わり、教会での職務の多くは私が引き受けた。司祭……「神父」自体は普段から留守にしているために、あくまで代理である私を「神父」と誤解する者も増えた。司祭の位には至れないであろうと噂される私にとって、仮初でも「神父」の役割を全うできることは大いなる歓びだった。
──安心したまえコンラート。君には司祭としての資格がある。助祭止まりになどさせはしない
私の血筋や出自についても、師であるハインリッヒ神父は決して嫌な顔をされなかった。
祖父のことを罵ることも無く、むしろ、私と兄弟の苦労を慮ってくださった。
──ハインリッヒ神父はどちらに?
──実は今、ベルリンの方に……。教会のことは、私……助祭のコンラートが代行させていただいております
──おお、そうなのですね。お若いのに立派なことで……何かあったら、頼ってくださいね
あの日々の記憶は、今なお眩く、美しい。
「……ッ、う……」
激しい頭痛が襲う。
胸の奥から込み上げてきたものを必死で飲み込み、押さえつける。
下卑た笑いが頭蓋に響く。繰り広げられる殺戮と陵辱の記憶が、意識の奥底から蘇る。
私や修道女たちが助けを求めようが、人々は懸命に素知らぬ顔をしていた。……理解していたのだ、教会を襲った者たちの「正体」を……
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