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10月 1

 本当に信用できるのか、この人。  晃嗣(こうじ)は目の前に座る、感じの良い微笑をマスクの上の目に浮かべる男を盗み見する。 「人事課の柴田(しばた)さん、ですね? 勇気を出してお越しいただきありがとうございます」  茶色い髪と瞳を持つ相談員は、何の金銭的利益をもたらさない自分との面談をあっさり了承してくれた上に、来てくれてありがとう、などと言う。本気で口にしているならどうかしていると、晃嗣は意地悪な気持ちになった。  ここは晃嗣の勤務する事務機器メーカー、株式会社エリカワの自社ビル5階、人事部のフロアにある小会議室の一室である。勤務終了後の18時、晃嗣は人事部にぶら下がっている「全てのマイノリティのための相談室」にやってきた。晃嗣の会社は社員の人権教育に力を入れており、この相談室の活動は外部でそれなりに評価されていた。にもかかわらず、相談室は社内に独立した部屋を持っている訳ではなく、会合や個別面談を、会議室を借りておこなっているのだ。 「もちろん今日お話しいただいたことは、一切口外しません……原則相談室の他のメンバーとは相談内容を共有しますが、しばらく私だけでお預かりすることもできます」  目の前に座る相談員の桂山(かやま)暁斗(あきと)は、この会社のトップセールスである。年齢的にも営業成績的にも、営業部長であってもおかしくないが、上が混み合っているためにまだ課長だ。  晃嗣は小さく応じる。 「あ、じゃあしばらく内緒にしておいてください」 「承知しました、では早速話を伺いますね……順序立てて話そうとなさらなくても結構ですよ」  前の会社で営業を担当していた晃嗣は、目の前の桂山に独特な魅力があることを感じ、なるほどなと思った。整った顔立ちだがどちらかと言うと平凡だし、特別話術に長けている訳でもなさそうだ。だが、容姿や振る舞いに嫌味なところや押しつけがましさが全くと言っていいほど、無い。それでするすると話を引き出されてしまうのだ。 「……私ゲイなんですけれど」 「そうでしたか」  桂山は見開いた目を一度瞬いただけだった。実は離婚歴があると聞かされた、くらいの反応である。この人は信用できるかな、と晃嗣は思い始めていた。 「……出会い系アプリやゲイバーで相手を探すのに疲れてしまいまして」  晃嗣は口にしてみて、忙しい営業課長に何てくだらないことを言っているのだろうと、自己嫌悪に陥りそうだった。しかしここ最近、ずっとそのことに悩まされ続けている。  恋人が欲しい。一昨年あたりから、学生時代の友人や会社の同世代に、結婚する者が急増したせいだろうか。日々のことを気兼ねなく話し合えて、しょっちゅうでなくていいので触れ合える相手が、心から欲しい。  ところがここ最近、マッチングアプリでろくな相手に遭遇しない。会うなりホテルに行こうとしたり、やたらと恩着せがましい態度だったり……春に数回会って好意を抱き始めていた男には、事もあろうに妻と子どもがいた。誰かが垂れこんだのか、サイトの運営側から個別に連絡が来て、彼の会員登録を抹消したといきなり通達された。それで晃嗣は何げに打ちのめされたのだった。 「それは残念でしたね……マッチングアプリじゃなくて直接会うパーティに参加なさるのはどうですか? 参加者の身の上はきっちり調べられていますし、やっとそういう集まりも復活してきていますよ」  桂山にそう言われてみると、晃嗣は果たして自分が今欲しいのは、継続的に交際できる相手なのか、よくわからなくなる。ずっと一緒にいるのも、何となく面倒臭い気がする。  ぼそっと正直な気持ちを話すと、桂山は晃嗣に呆れもせずに、じゃあ、と前置きする。 「今の寂しさをとにかく何とかしたいということでしたら、風俗を使うという手もあります」  風俗、と思わず晃嗣は復唱してしまった。桂山は軽く苦笑する。 「積極的にお勧めはしません、ただ店を選べば、多少恋人気分を味わわせてはくれますよ」  晃嗣はあ然とした。風俗の男性と恋人気分だなど、真面目そうな営業課長の口から出る言葉とは思えない。  待てよ、と晃嗣は考える。桂山はゲイであることをカミングアウトしている点でも、社内で有名だ(だから晃嗣は彼を相談相手に選んだ)。ゲイ専門の風俗に関する言質は、案外実体験なのかもしれない。  桂山はコーヒーを淹れてくれた。お互いマスクを取り、コーヒーカップを手にする。香ばしい匂いに、晃嗣は空腹感を覚えた。緊張していて、いつもなら夕飯の用意を始めているところだと、今まで思い至らなかった。  ブラックのコーヒーを口にしてから、桂山はしみじみと語る。 「秋が深まると人肌恋しくなるのは皆一緒です、抱き合う相手が欲しいって気持ちを抑え込むことはないと思います」 「……でもがつがつしている時には、相手って現れてくれないものじゃないですか?」  晃嗣はミルクだけを入れたコーヒーを飲んだ。確かに、と応えて桂山は笑った。 「だから敢えて風俗なんです……ピンキリでしょうが、マッチングアプリよりだいぶお金はかかりますけど」  これは自分の既存の価値観との擦り合わせが必要そうだった。晃嗣は金のかかる趣味を持っていない。学生時代に吹奏楽部でサキソフォンをたしなんでいたが、もう吹いていない。金を使うのは、今でも楽器を吹いている友人知人のコンサートに、差し入れを持って足を運ぶ時くらいである。それもここ数年の感染症の拡大で、すっかり減ってしまった。  しかし、金を使うところが無いからと言って、風俗に回すのはどうなのかと思う。それに当たり外れがあるのは、マッチングアプリと変わらないのではないか?  そう話すと桂山は、うーん、と視線を斜め上にやった。 「たぶん外れない風俗を紹介することはできますよ」 「えっ……」  晃嗣は何やら目の前の男性が恐ろしくなってきた。トップセールスの桂山ならば顔は広いだろうが、この会社の得意先に風俗店があるとは聞いたことがない。彼は机の上に置いていたファイルを開き、後ろのほうのポケットから青い色の名刺を1枚出す。 「完全会員制で一見さんお断りの高級デリバリーヘルスです、この人が経営者で、個人的によく知っています」  春の空のような青い色の名刺には、Diletto e Martir という店名らしきアルファベットと、神崎(かんざき)綾乃(あやの)という女性の名前、そして電話番号が書かれていた。 「彼女は医師で、平日は夕方まで病院にいますので、20時以降に連絡してください」 「かっ、桂山さん」  仰天した晃嗣は思わず腰を浮かせた。机が少し揺れて、スプーンが皿の上で音を立てた。 「こんなところでゲイ専風俗を俺に紹介するなんて、どうかしてるんじゃないですか?」  桂山はそうですか? とあっさり言った。 「ここの男性スタッフなら、今の柴田さんを癒してくれそうに思えたんですが」 「あなたこの店から何かキックバックされてるんですか?」  晃嗣は思わず問い詰める。元営業担当として、場合によっては桂山の言動に問題があると感じたからだ。桂山は口許をふわりと緩めた。 「そうですね、大きなキックバックをいただきました」 「はぁっ?」 「……私のパートナーはこの店のスタッフだったんですよ」  晃嗣は言葉を失う。桂山はにっこりと笑った。おそらく女が見ても魅力的だと感じそうな笑顔だったが、晃嗣はちょっと空恐ろしい。こんな大きな会社のトップセールスなんて、やはり普通の人間ではないのだと思った。

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