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10月 2

 こんな時間に、こんな場所で見知らぬ人と待ち合わせをしていることが、晃嗣には信じられなかった。渋谷の道玄坂に入ってすぐの、ファストフード店。時刻は20時前で、店内は少し落ち着きつつあったが、あらゆる年齢の人たちが集っている。  食事を済ませた人は自発的にマスクをつけていて、店内はそんなに騒々しくはなかった。晃嗣もハンバーガーを頬張るが、緊張のせいか、あまり味がしなかった。  結局晃嗣は、強い興味に抗えなかった。桂山と話した翌日の夜、青い名刺に書かれた携帯電話の番号に、どきどきしながら電話した。桂山があらかじめ何か話していたのか、電話に出た神崎綾乃なる女は、晃嗣の問い合わせに丁寧に対応してくれた。そしてそのまた翌日に、彼女に直接会うことになった。  神崎綾乃は秋葉原のメンタルクリニックに勤務しているというので、彼女の仕事が終わる時間に合わせて、晃嗣は駅前のベーカリーカフェに向かった。神崎は何故かすぐに、晃嗣を見つけてくれた。  心療内科医でありながら、ゲイ専用風俗店「ディレット・マルティール」の経営者。謎の経歴を持つ神崎は、マスクをしていてもわかるくらい美しく、上品な顔立ちをしていた。電話と変わらない優しく丁寧な話し方に、晃嗣は緊張を解くことができた。  神崎は自分の都合を優先してくれた礼を晃嗣に言ってから、話し出す。 「桂山さんとはかれこれ6年近いおつきあいですけれど、お客様を紹介してくださったのは初めてです」  それは意外だった。晃嗣は思いきって訊いてみる。 「桂山さんのパートナーさんが……そちらの店のかただったと聞いたんですが」  神崎は何でもないようにはい、と笑顔になった。 「結果論ではありますけれど、うちのスタッフはお客様のお気に召していただいて退職する者も多いんですよ」  江戸時代の遊郭の身請けを晃嗣は連想した。恋人らしく振る舞ううちに、そういう関係になっていくということなのだろうか。神崎は続ける。 「これは創業以来変わらない方針なのですが、このクラブは同性愛者のオアシスであることを一番の目標にしています……近づくと消えてしまう砂漠の中のオアシスではなく、そこに必ず在るものでありたいと考えております」  神崎の言葉に、誇張や嘘は無さそうだった。少なくとも晃嗣はそう感じた。では本物のオアシスで待つ男性たちの中に、自分のパートナーになる人がいると期待してもいいのだろうか……晃嗣は自分の幼稚な発想に、胸の中で失笑した。 「スタッフと過ごす時間が柴田様にとって、楽しく安らげるひとときであるように……短い時間であっても夢幻ではないように、務めさせていただきます」  神崎から料金表を見せられて、相手の好みを尋ねられた頃には、晃嗣はすっかりその気になってしまっていた。  初回はお試し価格でいいという。派遣型風俗など、晃嗣は使ったことがないし、友人知人からも使った話は聞かないため、相場がわからない。しかし桂山の言う通り、お試しであっても「高級」な店であるということは感じた。  感染症のこともあり、桂山が会員だった頃に比べると、かなり事業を縮小していると神崎は話した。それでも晃嗣が好みの容姿や、どのように接してほしいのかをざっくり伝えると、彼女は小さく頷いた。 「ご要望にお応えできる子がいます、タチなんですけれど、如何でしょう? うちは売り専ではありませんから、本番行為は禁止しておりまして、タチでもネコでもサービスとしてはそんなに変わらないのですけれど」  だからデリヘルと桂山は言ったのか。晃嗣は納得する。晃嗣はタチだが、しないならばタチの子でも構わないと思った。そもそも初対面の相手と、最後までやりたいとも思わない。 「あ、ではその人で……」  晃嗣は神崎に答えた瞬間、恥ずかしさとときめきに胸の中を蹂躙されてしまった。男を買うなどといういかがわしい行為に手を染めることにはやはり抵抗があるが、5歳下の売れっ子が晃嗣の出した条件に合致すると聞かされ、どんな子なんだろうかと期待感が膨れ上がってしまう。  息が上がりそうになるのを神崎に悟られないよう、晃嗣はコーヒーに口をつけた。桂山にあんな言い方をしたことを、今度謝ろうと思った。  そんな訳で、晃嗣は翌週の木曜日の夜に、指定された渋谷のファストフード店に赴いたのだった。自宅のある日暮里から、敢えて離れた場所に設定してくれたらしい。渋谷はあまり良く知らないが、ここで待ち合わせをして、この辺りに固まっているいずれかのホテルに行くのだろう。  ストローでオレンジジュースを吸いながら、見つけてもらえるのかと晃嗣は心配になった。なるべく入口に近い席に座っていてくれと神崎からメールが来て、その通りにしているものの、誰かに見られないだろうかという不安もあり、落ち着かない。  次々に出入りする客を見るともなく視界に入れていると、すっとした背の高い若い男が店内に入ってきたことに気づいた。晃嗣はあれっ、と思う。確かあれは営業課の……。  彼は待ち合わせをしているのか、レジに並ばずきょろきょろと首を動かした。同じ会社の人間に姿を見られるのはまずいと思った晃嗣は、顔を俯けてトレイに敷かれた紙に書かれた宣伝を見る。すると自分の横に誰か来て、空気が動いた。 「柴田晃嗣さんですね?」  耳に快い声で言われて、晃嗣はえっ、と咄嗟に顔を上げる。そこに立っていたのは、誰かを探していた営業課の若い社員である。晃嗣は目を見開き、頭の中がクエスチョンマークで埋められていくのを感じた。 「えっ、えっ、は、はい、柴田は私です、が」 「こんばんは、初めまして」  グレーのマスクをつけた彼は、失礼しますと言ってから、身軽に晃嗣の前に座る。そしてバッグから名刺入れを出し、薄青の小さな紙を一枚抜き出した。 「さくです、今日はよろしくお願いします」  嘘だろ……。晃嗣は言葉が出なかった。美しい色の名刺には、神崎綾乃のそれと同様、ディレット・マルティールの店名と、ひらがなで「さく」と書かれている。  晃嗣は彼の名を知っていた。――高畑(たかはた)(さく)。営業課の期待の若手だ。つまり桂山営業課長の部下にあたる人物だが、まさか……皆で自分を嵌めようとしているのだろうか? あ然としたまま、差し出された名刺を受け取った。 「あらためて、ご縁をもたせていただくこと、ありがとうございます」  明るい色の柔らかそうな髪を揺らし、さくは頭を下げた。……俺が同じ会社の人間だと気づいていないのか? そうかもしれない。人事部と営業部は、勤務するフロアが違う。晃嗣が彼を知っているのは、以前彼が持ってきた転居の書類を処理したことがあるのと、常日頃晃嗣が人事の書類を触っているからだ。  マスクの上のきれいな形の目は笑っていたが、初めて会う客としか晃嗣を見ていないようだ。さくは言う。 「あ、お食事終わってからで構いませんからごゆっくりどうぞ」 「あ、いえ、もう済んでるから……」  実は晃嗣は、高畑朔を容姿がタイプの人物だと脳にインプットしている。晃嗣は中途採用で、朔はおそらく新卒採用だが、2人は同期入社だった。入社式で朔の姿を見たとき、晃嗣は綺麗な子がいるなと気を引かれたのである。  そういう意味では、神崎綾乃は新規客の好みにジャストミートするスタッフを、しっかり送り込んできたことになる。いや、この男は本当に、営業課の高畑朔とは別人なのだろうか?  さくは行きましょうか、と晃嗣を促して立ち上がる。疑問をいろいろ晴らしたいが、こういう仕事に従事する人のプライベートを詮索するのはタブーだと聞いたことがあるので、晃嗣は黙って彼について行くしかなかった。  冷たい風を頬に感じながら、道玄坂のホテル街に、夜の闇に紛れて入り込む。男性同士、あるいは女性同士の2人連れも歩いているが、通りすがっているだけかもしれない。晃嗣は男と並んでこういう場所を歩くのが久しぶりで、そのことにも緊張してしまう。  ホテルは任せると神崎に言ってあった。さくは裏道に入って、こっそりと設えてあるようにしか見えない自動ドアをくぐる。晃嗣は彼について行く。 「好みのお部屋とかありますか?」  フロントのパネルの前でさくに訊かれて、晃嗣はおとなしい部屋で、と答えた。さくは礼儀正しくはい、と答えて、シックな部屋を選ぶ。値段も安いほうだった。さくは慣れた様子でカードキーを取る。 「柴田さん、緊張なさってますか?」  薄暗い廊下を進みながら、さくは訊いてくる。正直にはい、と答えると、彼はふふっと笑った。 「今日はお試しですから、挿れるのはだめなんですけど、どんなことがしてみたいのか伺いながらゆっくり進めますね」  良い声だなと晃嗣は思う。この声で啼いてくれたら大興奮しそうだな、とも……そんなことを考える自分が、すぐに嫌になってしまった。この子が高畑朔であろうがなかろうが、金で若い男を買って性欲を処理するなんて、人様に堂々と話せることじゃないと、晃嗣は自己嫌悪混じりに思った。

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