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11月 1 ①

 週が明けて、月が変わった。晃嗣は各部署のパートタイマーの出勤簿のチェックに手をつけ始めたが、きりが悪くなって、昼休みの開始を後ろ倒しにしていた。社員食堂の定食に選択の余地が無くなってしまったが、空いた食堂の窓際に盆を持って行くと、晴れた窓の外が心地よく、得をしたような気になった。  3時くらいまでにはあれを終わらせようと考えながら、鯖の煮つけに箸を入れていると、前の席に誰かやってきた。普段晃嗣が1人で社食にいても、そんなことは滅多に無いので、違和感からふと顔を上げた。そしてひゅっと息を吸い、そのまま止めた。 「やだなぁ柴田さん、どうしてそんな幽霊でも見たような顔するんですか?」  高畑朔が笑顔で立っていた。彼は静かに、晃嗣と同じ定食が載った盆をテーブルに置く。彼が首から掛けている社員証が揺れるのを見ると、晃嗣の気持ちも一気にふらふらとする。  俺の秘密の推しが来た、一体どういうことだ。晃嗣は当惑混じりのときめきを相手に悟られないよう、身体を緊張させ鼻から息を抜いた。  高畑は無駄の無い動きで椅子に座った。 「先週は失礼しました、まああの日朝イチに人事に行きたかっただけなんですけど」  彼の言葉に含みがあるのを感じて、晃嗣は慎重に尋ねた。 「それはどういう意味?」  高畑はへ? と首を傾げる。 「柴田さんがちゃんと出勤してらっしゃるかどうかを確認したかったからですよ、前の夜にいかせ過ぎたかなって気になってたから」  何……? 高畑の言葉に頭の中が真っ白になり、晃嗣は手から箸を取り落とした。かちゃん、と高い音がして、食器にぶつかった箸が床に落ちる。高畑は静かに椅子を引いた。 「新しいの持って来ますね」 「あっ、いや……」  止める間もなく、彼は拾った箸を持ち早足でカウンターに行ってしまった。晃嗣はこの場から逃げ出したくなったがそうできず、戻ってきた高畑からきれいな箸を手渡される。 「……ありがとう」  小さく言った晃嗣に、高畑はいえ、と応じながらマスクを外した。晃嗣は顕になったきれいな鼻筋や上品な口許を見て、やはり胸の中がざわめくのを止められない。ああ、さくはやっぱり幻ではなかった。実は週末、彼を思いながら自慰行為を複数回してしまった。晃嗣は勝手に罪悪感を覚える。 「柴田さん俺のこと好みってマジ?」  高畑はほうれん草の胡麻和えに箸を入れながら、低く言った。晃嗣はびくりとなって、えっ、と思わず声を上げる。 「確認してんの」  彼は、さっきまでの丁寧な態度とは打って変わった、雑なタメ口で話した。そして上目遣いで晃嗣を見る。晃嗣は腹を決め、問うた。 「……きみはディレット・マルティールのさく、なんだよね?」 「そうだよ」  高畑はあっさり答えて、ほうれん草を口に入れた。 「お試しで新規のお客様行けそうかって綾乃さんに言われた、その後に同じ会社の人だからまずいわね、ともね」  神崎の話と齟齬は無いようだ。晃嗣は思いきって尋ねた。 「……どうしてこんなリスキーな仕事を受けたんだ、周りに知られたくないんだろう?」  高畑はちょっと唇の端を上げる。晃嗣は続けた。 「俺だってあの夜、きみの顔を見た時は肝が冷えた」 「だからだよ、俺は副業を黙っていてほしい、柴田さんもゲイ専デリヘルを使ったことを周りに知られたくない、ウィンウィンだろ?」  なるほど、確かにそうだ。晃嗣はきれいな顔をした愛想の良い営業マン、あるいはデリヘルスタッフが、なかなか狡猾であることを思い知らされる。 「取り引きってことか」 「大げさだなぁ……メシ食ったら?」  高畑に言われて、晃嗣はほうれん草に箸をつけた。 「ちょっとした秘密を共有するってだけのことだ……それで? 俺が好みだってマジなの?」  晃嗣はやや茹で過ぎのほうれん草を咀嚼した。質問を否定する意味も理由も無さそうだったが、好みの相手におまえが好みだと告ろうというのに、ときめきどころか不安がじわじわ押し寄せてくる。 「……そうだよ、キモくて迷惑とでも言いたいのか」 「まさか」  高畑は言ってご飯を頬張った。晃嗣は彼の真意が全く読めず、また箸を止めた。 「どちらかと言うと嬉しい」 「え……」 「だから柴田さんが指名してくれる時は最優先するからさ……会員登録してくれたって聞いた、次回もよろしく」  高畑の言葉に、晃嗣は呆れた。堂々と同僚に対して、金づるになれと言ってくるとは。自分が気に入られていると理解しての言葉なのだろう。まあ晃嗣だって、性的なはけ口として彼を買う決心をしているので、それこそ需要と供給は一致していた。  とはいえ高畑の露骨さはやや癪に触った。 「……二度と無いと言ったら?」  晃嗣が試しに低くそう言うと、彼はえっ! と眉の裾を下げた。その顔がちょっと可愛らしくて面白いので、晃嗣の表情筋が緩みそうになる。 「そんなこと言わないでよ、俺柴田さんのこと最高に気持ち良くするし、最高に楽しい恋人になるよ?」 「はぁ?」  混乱しつつ、おかしなことになっていると晃嗣は思った。高畑は自分が「さく」である時は、自分と全力で恋人ごっこをしてくれるという意味だろうか? 馬鹿にされているようにも感じられた。  しかし晃嗣は、元々高畑の容姿が好みである。スタッフのさくについて言うならば、振る舞いも好ましいので、期間限定の恋人でも十分嬉しく思う自分が確かにいた。ちょっぴりそんな自分が情けなくなるが。 「柴田さんタチだって綾乃さんから聞いたけど、ほんとはネコが合ってるんじゃない? ってこないだ俺思ったんだけど」  晃嗣は高畑の声に、味噌汁を噴きそうになる。そんなことを言われたのは初めてだった。晃嗣はマッチングアプリのプロフィールにも、タチであることを書いているので、ネコの男性としか会ったことがない。もしかすると高畑はバリタチで、タチさえもネコとして扱いたいタイプなのかもしれない。 「……じゃあきみと居るときはネコになったらいいのか?」  冗談のつもりだったが、高畑は明らかに頬を染めた。思いがけない反応に、晃嗣までどきどきしてしまう。何だこいつ、喜んでるのか? ちょっと可愛いのが腹立たしい。 「うわぁ、俺柴田さんのことバリクソ溺愛するわ」 「あ、え? ……それは俺がネコってのが絶対条件なの?」  晃嗣が溺愛という言葉にやや幻惑されながら応じると、途端に高畑はきれいな形の唇を、いやらしく歪めた。 「ちょっと柴田さん、俺とあなたとの間では挿入行為無しだよ? 挿れてほしいってことならまた話は別だけど?」  晃嗣の頭に一瞬で血が昇った。おまえの話に合わせてるんだろうが! 「誰が挿れてほしいなんて言った、俺はタチだっ」 「えーっほんとかなぁ?」  からかわれているとわかり、本気で腹が立ってきた。大体、社内で何という下世話な会話をしているのだ。食堂が空いているからと言って、気が緩み過ぎている。  晃嗣は言葉を発するのをやめて、ようやく食事に集中する。とんでもない曲者に遭遇してしまった、俺にこいつを上手く扱えるだろうか。  高畑は晃嗣の密かな煩悶をよそに、ちょっと笑った。 「あのさ柴田さん、普通のコースはお安くないんだけどさ、新設の非接触デートコースがコスパ高くておススメ」 「ああ、そんなのあったな……非接触の定義は?」  晃嗣が軽く眉間に皺を寄せて訊くと、高畑は上機嫌に説明する。 「ホテルでやらしいことはしないけど、一緒にどっかに出かけたり食事したりするんだ……手つなぎはOK、恋人感あるだろ?」  高畑が、恋人のように接してほしいという晃嗣の希望を念頭に置いているのだとようやく理解した。まあ確かに、悪くない提案ではある。 「柴田さんきれいにご飯食べる人だから、デートコース受けてもいいって今決めた」  高畑は少し顎を上げ、小生意気な表情になった。脳内に浮かんだのはやはり、可愛いなぁという感想だった。  晃嗣が茶を飲み始めると、高畑は食べる速度を上げ始めた。煮魚を食べない若者も多いと聞くが、彼はきれいに鯖を平らげていた。 「俺3時に取引先行かなきゃいけないんだ、柴田さんも昼休憩終わりだろ? 足止めしてごめん」  別に足止めはされていないが、雑な口のきき方をする割には気を遣うのだなと思った。晃嗣はじゃあお先に、と言って椅子を引いた。 「2回目の指名、心よりお待ちしております」  高畑は茶碗と箸を手にしたまま笑顔で言った。晃嗣は曖昧に頷いたが、非接触デートコースは幾らくらいするのかが、気になり始めていた。

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