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12月 3 ①

 朔のLINEのIDはプライベートのものらしく、少なからず晃嗣は驚いた。  他の得意客ともこんな風に、3回指名してくれたからと言って繋がっているのだろうか。晃嗣は危機管理が甘いのではないかと朔が心配になったが、そこはやはり客層の違いなのかもしれない。おそらくディレット・マルティールの会員は、贔屓のスタッフに節操なくメッセージを送り倒すような真似はしないのだ。  晃嗣は神崎綾乃からも、パトロヌス制の案内メールを受け取ったが、返答を保留している。とはいえ高級クラブの一会員として、それらしい振る舞いはしておくべきだと判断し、自分からは朔にLINEをしないようにしていた。  晃嗣の痩せ我慢を見抜いているのか、朔は朝晩の挨拶をほぼ毎日送ってきた。「おはよう」と「おやすみ」。実家にいた頃は口にするのが当たり前だったその言葉を、誰にも言わなくなって久しい。慌ただしい朝は、スタンプだけのこともあるが、晃嗣は朔の挨拶を喜ばしいものとして受け止めている。  飲酒を伴う食事につき合い、顔を合わせない時はメッセージを寄越し、たまに性的に奉仕してくれる。朔は文句のつけようのない「恋人」だった。それが例え擬似恋愛であっても、晃嗣は日々満たされており、それが仕事に対する意欲にも繋がっている自覚がある。  ある寒い朝、晃嗣が始業前に給湯室で飲み物を用意していると、総務と人事の総元締めである西山(にしやま)統括部長が通りかかった。面構えの割に気安いこの人が割と好きな晃嗣は、おはようございます、と自分から声をかけた。 「おはよう、人事課みんなの分を一人で用意してるのかい?」 「いえ、早めに来る人の分だけです」 「今朝は寒いから来るなり茶が出たら嬉しいだろう、営業経験者はやっぱり気が利くね」  西山部長は晃嗣が元営業マンだと知っているので、たまにこんな言い方をする。 「そうそう、昨日の会議で話が出たからちょうどいい」  西山が話を続けるので、晃嗣はコンロの上のやかんを気にしつつ、彼の顔を見た。 「人事課のことなんだけど、瀬古さんをカバーする課長補がもう1人いたほうがいいという話になってね」  晃嗣ははあ、とやや間の抜けた相槌を打った。それを見て、西山は微苦笑した。 「柴田くんが候補に上がってる」 「え……?」  晃嗣はこれも間抜けな声を発した。この会社に転職した時から、出世はもう自分には関係の無い、別世界の出来事と見做しているからだ。  株式会社エリカワは、新卒や第二新卒は熱心に教育するが、中途採用に求めるのは現場の戦力としてのスキルで、管理職にあまり登用しない傾向がある。もし晃嗣が西山の言う通りに役職付きになったとしたら、ちょっと(とう)の立った課長補だなと周りに思われるだろう。 「……えっと、部長、有り難いお話ではあるのですが、別に私なんかでなくても……優秀な若い人もいますし」  正直気まずかった。ちょうど湯が沸いてきたので、晃嗣はコンロの火を止めて、並べたマグカップに順番に湯を注ぐ。  西山はやや楽しげに言った。 「きみは聡いから、たぶん自分は管理職の対象外だと判断していたんだろうな……事実この会社は中途の人材の扱いが下手だから、改善していきたいというのもある」  言葉は悪いが、晃嗣に実験台になれということなのだろうか。  晃嗣は返す言葉が見つからないまま、マグカップからティーバッグを引いていく、西山は盆を出してきた。 「一人じゃ往復しなきゃならんだろう」  西山は2枚の盆にマグカップを並べていく。晃嗣は驚いてあたふたする。 「部長、私がやります、あの……」 「気にするな、たまには人事課に顔を出してプレッシャーをかけておこう」  西山が課の部屋に始業前から顔を出して、そこにいた10人ほどの社員が一斉に緊張したのは言うまでもない。恐縮しながら、西山から緑茶の入ったマグカップを受け取る人々は、晃嗣の目にはなかなか面白く映った。  西山がマスク越しでもわかるほど上機嫌でその場を去り、若い社員がびっくりしたと感想を述べる中、晃嗣はスマートフォンを鞄からそっと出した。LINEを立ち上げ、朔とのトークルームを開く。朝の挨拶を返して、小一時間経っていた。 「西山部長に会って、人事の課長補への昇進の可能性を仄めかされました。真に受けていいものか、朝から悩まされます」  こんな話をしてどうするんだと思いつつ、晃嗣は送信マークをタップした。それからようやく晃嗣は、西山の話を喜んでいる自分に気づく。  朔からの返信は早かった。驚く猫のスタンプがやってきて、それはおめでとうございます! という吹き出しが続く。 「個人的に西山部長がどんな人か存じ上げませんが、真に受けていいと思いますよ」 「そうかな」 「そうです」  何となく胸の内がすっきりした晃嗣は、ありがとうのスタンプを探した。すると朔が先にメッセージを送ってくる。 「今直行中なんですが、会社に戻るので、お昼を東京駅のどこかで食べませんか?」  晃嗣は突然のランチの誘いに固まった。昼休みに外食など、ほとんどしたことがない。目立ってしまわないだろうか。……いや、俺が昼休みに出て行っても、誰も気にはするまい。だが。  晃嗣は始業時間が来てしまったことに焦り、了解、と返事をしてしまった。こちらの始業に気遣ったのだろう、昼に連絡しますと朔は書いてきて、やり取りは止まった。  今日は食べに出るのかと誰かに訊かれたら、どう答えたらいいのだろう。晃嗣は、初めて恋人と旅行に行くのを親にごまかす若い子のように、一生懸命言葉を探し始めた。西山から聞かされた話に動揺していたことは、否めなかった。でなければ、そんなことに時間を費やさなかっただろう。

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