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2魔法道具店のイリゼ

イリゼは今朝も母や祖母から引き継いだ古ぼけた店の木製の薬棚を愛情をこめて丹念に磨き上げた。  そして手慣れた様子で赤や黄色の花々や抜けるような青空、山河の翠と自然の豊かな色彩をそのまま搾り取って溶かしたような、そんな彩り豊かな魔法薬の詰まった小瓶を丁寧に並べていく。  きらりと光を反射した視界の端に惹かれふと薬指に目をやれば、燃え立つ焔にも似た色合いの大きな宝石の嵌まった指輪が今もしっくりと馴染んだままになっている。  赤々と熱いその色彩が、視界いっぱいに広がり揺れる赤毛とその合間から覗く熱っぽくも冴え冴えと青い双眸を持つ、あの男との鮮やかすぎる思い出をまざまざと蘇らせた。  男の厚みのある大きな掌に上から寝台に押さえつけられたまま、熱っぽい切羽詰まった声で何度も何度も飽かず囁かれた自分の名前が、まるで至上の音楽のように耳の奥で木霊したまま離れない。 『イリゼ、イリゼ……、あいしてる』 「……っ」  ぞくぞくっと身を震わせて息をのむと、目の毒とばかりにイリゼはほっそりと白い指先でそれを撫ぜ包み込んでそっと隠した。そのままひと思いに抜き取るでもなく『はあっ』と悩ましいため息を一つ。  思わず呟きかけた『会いたい』という言葉をぐっと飲み干すと、紅を刷いたような美しい唇を皮肉気に歪めて嗤う。 (自分から手放したくせに……。どれだけ未練がましいんだ……)  生きている限り今日も明日も、いつも通りの変わらない朝を迎えて、いつも通りの変わらない一日が始まる。  彼に出会う前の永遠に続く凪の刻のような穏やかな日々に戻る、ただそれだけなのに……。こんなにも切なく胸が苦しい。以前の自分がどんなふうに生きてきたかも思い出せないほどだ。 (もう……。俺のことなんてすっかり忘れているはずだろ?) 「ああ、もう。いつまでもくよくよしてはいけない。今更後悔したって遅いんだ」  人恋しさから自分に言い聞かせるよう独り言まで呟く己が滑稽で、清々しい朝の空気に合わぬ、熱い涙が眦に溜まりそうになる。  イリゼは萌黄染めの前掛けの紐で腰をきつく締めあげると、気合を入れるようにまろい頬をぺちぺちと叩いた。 「店……、開けよう」  今となってはこの店だけがイリゼが唯一愛し護るべきものとなってしまった。ここまで失ってしまってはもう、この世のよすが全てを失ったも同然だ。   年中温暖な気候で名物である澄み渡った大空に似た色で甘く薫る『空瑠璃〈そらるり〉』の花々に彩られた田舎町ルーチェ。  温厚な領主一族が何代にもわたって統治しつづけているこの城下町にイリゼは祖母の代から魔法薬や護符となる装飾品等小間物の魔道具を売るお店を開いている。  店の奥と二階が住居スペースで、裏庭には小さなハーブガーデンがあってゆらりと風に靡く柳の向こうにはさらさらと小川が流れている。  川に沿って咲く空瑠璃の花が春から秋の初めまで長く見頃で、真夏には蛍が飛び違うのが見える光景は切ないほどに美しい。  元は街の外れにぽつっとあるような店だったが、数年前から川沿い地域の家賃の安さに惹かれて近所に若い店主が営む小さくも愛情いっぱいの洒落たお店が増えた。  これを機に、イリゼの店も大胆に方向転換をすることにしたのだ。  昔はイリゼの一族のように道具や薬に魔力を込められるものはずっと数が多かったらしいが、今ではもう年寄りばかりだ。イリゼは若い人にも手に取って貰い安くするように従来の苦みの強いどろどろの液体とはせず、花の香りや果実の香りづけをした清水に、それぞれの薬草の効能の或るチンキを垂らし、その後秘密の方法でキラキラと光り輝く色とりどりの液体にお洒落な加工して売り出した。  元気が出る魔法薬は春に咲く黄色い花々や太陽をイメージした濃い黄色。  恋する相手から自分が輝いて見えるようになる薬は底の方が薔薇色から薄紅までのグラデーション。  昔ながらの魔道具店からは小馬鹿にされて嫌がらせもされたりしたが、結局はまだあどけなさの残る美貌の店主の円やかな人当たりの良さに加えて、若い世代の『どうせ飲むなら美味しい方がいい』との要望を受けて前回の『新装開店』時はとても繁盛した。 (また気長にお店を軌道に乗せていくしかないよな……。もうこの間までのルーチェの隠れた名店って地元の人に愛された『虹色魔道具店』はどこにもないのだから) 先行きに対する不安や手放した愛について考えては、ぼんやり落ち込んでばかりはいられない。  仕事に意識を戻そうときりっと店の外に目をやれば硝子窓の向こうにこちらをちらちらと伺う、若い女性とその隣に立つ見慣れた濃紺の制服が見えた。 (ダイっ!)  性懲りもなく心臓を高鳴らせ、イリゼは肩口で切りそろえられた淡い色の髪をなびかせて、さっそく扉に駆け寄った。ぶつかるように取っ手に手をかけ、建付けを直しても裏の河原の湿気のせいか、ややぎいっと軋むそれを外に向かって大きく開け放つ。  すると護衛兵団の制服に身を包んだ若者が、このところ頻繁に店を訪れてくれていた女性と共に、扉から転がり出てきたイリゼを見てぎょっと驚いた顔を見せた。 (ダイがまた、こんなところまでくるはずないのに……)  わかっているのにがっかりする自分が嫌で、僅かに曇らせたイリゼの表情を見て、女性の方が慌てて頭を下げてきた。 「すみません。まだ開店前でしたか?」 「いいえ。ちょうど今開けるところでした。この間はありがとうございました。今日はお連れの方もいらっしゃるのですね?」 「イリゼさんがこの間ご紹介してくださったあの薄荷色の小瓶、使ってみたらとても良かったから弟も連れてきたんです」  よくよく見れば二人は同じような焦げ茶色の髪をしていて目の形等似ているところも多い。 「姉から近所に新しいお店ができて、商品もお店の人もすごく素敵だというから、一度一緒に来てみたかったんだ。想像以上に、その。綺麗だ」  弟はイリゼを見て自分とそれほど年が変わらぬと思ったのか、急に気安く馴れ馴れしくなって姉に肘で脇を小突かれている。  イリゼの光が滲むように煌く美貌にじっと見つめられ、彼は眉を下げニキビの浮かぶ頬をみるみる真っ赤に染める。姉の横で棒立ちになり凡庸さばかりが際立った。  制服に包まれた身体の線がまだ成熟した大人の男に及ばず僅かに細い。イリゼはほんの少しだけ眦の下がった、若い麦の穂色の大きな瞳をすうっと妖艶に眇める。 (……まだほんの子供だ。彼をダイと見間違うなんて……。いよいよ焼きが回ってる。みてみろよ……。同じ制服姿だっていうのに、まるで違う)  ダイの逞しく厚みのある胸筋や、がっしりした上半身を支える筋肉質で長い脚の堂々たる立ち姿の滴る男ぶりに比べたら、目の前の小僧との違いは明白だ。あまりにも違い過ぎてイリゼは余計に瞳を潤ませ彼を想った。 (ダイ……。今頃何してるだろう)  あどけない顔に似合わぬイリゼの無防備な艶めかしい目つきに青年が顔を真っ赤にして息をのんでいると、姉の方も別の意味で顔を赤らめてイリゼを見上げてきた。 「あと……、この前相談したあの薬のことなんですけど……」  恥ずかしそうにもじもじとする姉の方の初々しい愛らしさにイリゼは微笑みを浮かべながらゆっくりと頷いて、弟からは聞こえにくい様に彼女の耳元に屈んで囁いてやる。 「ありますよ。好きな人の前に立った時、星が瞬くように、瞳も肌も髪も艶々と輝かせる。そんな薬やクリームも扱っていますよ? それと眠りが深くなる薬は毎日少しずつ白湯に混ぜて入眠前に呑めば身体が温まってより眠りやすくなりますよ。よかったらご覧になりませんか?」

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