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ホーリーナイト。
俺と仕事とどっちが大事なんだ。
自分の人生の中でそんなくだらないセリフが喉まで出そうになることがあるとは思わなかった。
そもそも幡野覬は自分が愛されていて当たり前だと疑わない節がある。カタギの人間からはともかく、ヤクザの統領としては部下に慕われ、性格も明るい。気前も良くて闊達だ。ヤクザとして嫌われることはあっても人間としては人に好かれるタイプだろう。──まして思いが通じ合い、恋人同士となった人間は、自分に惚れたままでいて当然であると思っている。
だが、賢木航成に関してはどうにも読めない所がある。
航成が持つ洋食屋「ステラ」の店内、閉店後のテーブル席で2人顔を付き合わせて取る夕食の後、後片付けをする為に厨房の流し台に立つ航成を追って覬はわざわざ席を立ち、今度はカウンター席で灰皿を脇に食後の一服をする事が決まりごとのようになっている。自分の吐き出す煙の向こうに見上げる航成は明らかに何事か考え事をしているが、この顔は大体料理や次の期間限定のメニューを考えている顔だということはそろそろ覬は把握しつつある。付き合い始めたのが昨年のクリスマスの後だ。札幌の長い冬はまだ明けないが、恋人同士としての時間は着実に積み重なっているはずである。
その間にわかったことは、航成が考えている事は大体が料理のことであるということだ。
料理バカ、と口にしたのならその瞬間に大喧嘩が始まりそうだということは察している。だがこの男は概ね料理のことを考え、もっというのならその他のことは概ね疎かだ。
店の2階にある航成の自宅は放っておけば雑然と散らかり始めることに気が付いた為に覬が時折舎弟を連れてきて片付けをさせる。今までどうしていたのかと疑問に思う日々積み重なってく洗濯物も、舎弟を呼び付けてコインランドリーでも使えと持ち帰らせる。自ら家事を行うことは無いものの、ともすれば航成よりも覬の方がマメに暮らしているし、細かいことに気が付く傾向がある。
航成が気が利かないわけでも気が付かないわけでもない。この男はとにかく万事──料理で頭を占められている。
そうなると、自分の事はどうなのか。
感情の起伏が激しい、というよりも喜怒哀楽のわかりやすい覬に比べて航成は落ち着いている。飄々としてクール、と言えば聞こえは良いが無愛想でもあり、淡白で仏頂面に近いところもある。よくこれで接客業をやっているものだと感心するが店での航成の役割はコックである。配膳や会計等の接客面はパートやアルバイトに任せておけばコックは厨房から出ずに黙々と料理を作っていられる。
一方で恋人である自分にだけ覗かせるような面があれば覬は納得するのだが、その傾向も見えずらい。感情が乏しい訳でもない。落ち着き払っている風を見せているが起伏の面では航成と覬は似たところがある。だが普段はそれを隠し、常に落ち着き払っているような風情が覬は気に食わない。年下のガキのくせに。これも言えば喧嘩になりそうな気がして口には出さない。──だが、面白くないのは事実である。
航成の頭の中で、自分は何割を占めているのか。
10割とまではいかなくてもよい、と譲歩できるのは航成が何より店を大切にしていることを知っているからだ。この店や料理を無くして航成という男は成り立たないだろう。覬自身もこの店と航成の料理が好きだ。
だが八割、否、九割くらいは自分の事を考えていて当然だ。そしてあわよくばその事を前面に出せ、と覬は思っている。
「コーヒー、飲み終わったか?」
「おう、」
ぼんやりと航成の顔を眺めていた所に唐突に視線が重なった。顔を上げた航成が濡れた手を差し出している。空になった覬専用のマグカップを持ち上げて手渡す際、ほんの一瞬だけ指先が掠める感触があった。爪の端に伝った滴を指の腹で拭いつつ咥えタバコの顔を上げた。
「今日、泊まってくからな、」
ついでのように口にしてみる。航成の狭いシングルベッドで毎晩は同衾していない。だが明日は店の定休日の水曜で、火曜はほとんど毎週航成の自宅に泊まっている。
「…ん、」
じっと観察してみるも、航成の表情に変化はない。浅く顎を引いてからすぐにまた手元に視線を落とし、シンクの中の手を動かし始める。
ちょっとは嬉しそうにしやがれ。
内心でムッとするものの、飲み込んだ理由はくだらない事で前言を撤回したくなかった為だ。何事もなかったような顔で航成の姿を眺める。今の航成は冬の終わり、少しだけ春を思わせるメニューを思案することに夢中である筈だ。こいつ本当に俺に惚れてるんだろうな。珍しく弱気な疑念すら過ぎる程に、航成の顔に変化は見られなかった。
◆
窓の外は吹雪である。札幌の中心部のど真ん中にいながら、荒野かと間違う程に吹き荒ぶ雪は、風と共に建物を軋ませる。カーテンを捲り、外の様子を確かめる覬のいる部屋は暖房が効き過ぎているのかもしれない。シャワーを浴びた直後の汗の引かない体をそのままに覬は咥えた煙草の先に火を灯す。階下では航成が今日の片付けをしている最中である。明日は休業日だから、翌日の営業の為の仕込みは無い筈だ。覬は先に店から引き上げ、しばらく1人時間を潰していたものの、今日は少し時間が掛かっているかと家主よりも先に使ったシャワーも早々に終えてしまった。
ベッドの縁に腰掛け、聞くでもなく階下の物音に耳をすませていると、不意にその音が止まり、代わりにドアの閉まる音と階段を登る足音が聞こえてきた。いつもと同じリズムを刻む音にようやく今日の仕事を終えたらしい航成の顔を思う。全く勤勉な男だと苦い笑みすら込み上げてきた。
「ただいま、──…、」
「おう。お疲れ、」
ドアが開いて間もなく航成が顔を出す。やや疲れた顔をしているが一日を終えた人間としては当然だろう。ベッドの上に座ったまま、指先に煙草を挟んだ手をひょいと上げて応じた覬に航成が視線を留め、軽く目を瞬かせた。
「先シャワー使った」
「…風邪ひくぞ、」
下着1枚だけを身に付けて寛ぐ姿に対してなのか、航成が眉根を寄せて呟くも、覬は至って気にする事はない。傍らの灰皿を引き寄せ、伸びた灰を落とす。
「まだあちぃんだよ。今ちょっと前に上がったからな、」
なかなか視線が合わない航成に違和感を覚えつつも口元を緩めて笑う。軽く俯き、指先でぐりぐりと眉間を揉んだ航成が覬の元へと歩み寄ってくる。不意に、所在なさげに視線が泳いだ。
「…それ、早く吸えよ」
ちらりと寄越した目線は覬の指先の煙草にある。半分は吸い終えたがまだ充分に長さを残したそれを指されているのだと気付いた覬が唇を尖らせた。
「ああ?なんだよ急に、」
そんな事は自分の勝手だろう。意識しなければつい喧嘩腰になる。何を文句があるのかと言わんばかりの目でフィルターを唇に寄せ、深く息を吸っては吐く。煙の向こうの航成は憮然とした表情で佇んでいる。
発した言葉は端的で、その意味や理由を1から10まで説明をしないのは自分も同じだろう。まどろこしい事は嫌いだった。指に挟んだ白筒の先をぽ、と赤く灯らせてから灰皿を引き寄せて底に穂先を押し付ける。枕元に置かれたサイドテーブルの上に灰皿を預けつつ顔を上げた。
「煙てえならちょっと窓開けるとか、……」
天井に留まっては消えていく紫煙を見遣り、航成へと顔を向ける。不意に、濡れたままの髪の先に何かが触れた。明かりを遮るように影を落とすそれが航成の顔だ、と意識するとほとんど同時に両手で頬が包み込まれ、淡く唇が塞がれた。
「ん、」
唐突な行動に瞼を開けたままの覬に対して航成はきつく目を閉じている。ついでに寄せられた眉間の皺を間近に、覬もまた柔らかく唇を食んで応じる。そのまま、前屈みになった航成の身体が傾けられるままに覬の視界が反転し、ごく僅かに強引さ感じさせる力でベッドの上へと押し倒された。
「…なんだよ、」
珍しいな、と口にしようとする唇をまた閉ざされる。普段であればなんとなく、といった風の軽い戯れを経て始まる行為が今日は随分と性急である。それならば、と覬が肩肘を着いて体勢を変え、一方の腕を航成の首へと巻き付け、肩を抱き寄せる。応じるように唇の上下を舌が割った。
上唇を食み、舌先で歯列なぞり、咥内の粘膜に触れる。航成の動きを追うの覬の苦い舌が軽く絡まっては離れ、小さく水音を立てた。口端から時折呼吸を逃さなければならない程に幾度も離れてはまた触れる唇の感触に覬の身体が徐々に熱を帯びていく。いつしか瞼を閉じ、夢中になって航成の唇に吸い付いていた。
「珍しいんじゃねえのか、」
航成のセックスが淡白だと思ったことは無い。むしろ丁寧に、といえば聞こえは良いが覬に言わせると焦れったいと思う程に、だが執拗に時間を掛けて触れるそれは航成の数少ない愛情表現であると解釈している。この男が大切なものを丁寧に扱うことを知っているし、丁寧に扱われることが満更ではない。
その航成の手が覬の上半身を撫で、下着に触れようとする。まだ甘く勃ち上がっているだけの性器に布越しに触れる指を見下ろし、わざと目を合わせて口角を上げた。
「……別に、」
我に返ったのか、自分の性急さを恥じているのかほとんど口の中で呟き、目を逸らす。本当は理由など無くても構わない。覬もまた、航成が未だ身につけたままの仕事用のコットンパンツの履き口に指を伸ばす。慌てて引こうとする腰を許すまいと指先を履き口に引っ掛けて己へと引き寄せ、手探りでベルトの金属を外していく。
ベッドの上からは持ち上げられたままの覬の首筋に額が埋められたかと思うと、何事かを誤魔化すかのように首筋に唇が押し当てられる。甘い口付けの擽ったさに目を細めつつ、ボトムのジッパーを下ろした覬の手が航成の下着に触れた。
「っ、」
航成とは違い、遠慮のない指が布地を下ろし、下生えを撫でる。既に覬のそれと似たような形を成している熱に指を絡ませると、負けじと航成の手が覬の欲に直に触れる。根元から撫で上げられる感触にぞくぞくと背を滾らせ、戯れに腰を上げてやると航成の指ごと己の欲を航成の雄に押し付けた。
「…こっち、俺がしておいてやるからよ、」
怪訝そうな目を上げる航成に言い聞かせるように低く発する覬の相貌に汗が浮き始めている。航成の指から引き取るように己の熱と航成の熱とを重ねて柔らかく握り込むと、見上げる肩がぴくりと震えた。衝動の理由はわからないものの、航成のその気を逃すわけにはいかない。肘を外してベッドの上に身を横たえると自ら下着をずり下ろし、露にした双丘を示すように軽く身体を傾かせた。
「お前はこっち、」
下着を払った手で航成の手を取り、双丘の割れ目へと導く。嫣然と笑う覬の瞳に呼気を詰める気配を経て、航成の指はすぐに臀部の奥の窄まりへと触れた。
「──ンっ、」
音が立つように覬の体内の入口に指が立つ。そのまま壁の感触を確かめるように入り込んでくる航成の長い指に嫌でも身体が震えた。すっかり馴染んだ指が馴染んだ動きで肉壁を解していく。開いた唇から惜しむことなく吐き出される息に色が帯びていく。覬の手が2人分の雄を緩く扱く度に、身体はきゅ、と航成の指を締め付ける。細身の覬の首に浮く筋がぴくりと震える様を伝えるようにまた唇が寄越された。
外から聞こえる風雪の音に互いの吐息と濡れた音が混ざり合う。ベッドの縁から足を投げ出したままの不自然な体勢で覬が身を捩り、手にした熱塊を強く扱いた。
「っ、離せって、」
航成の雄は覬の手指によってはっきりと形が変わっている。余裕の無さが発する声に乗った。気を良くした覬が再びベッドに肩肘を付き、横から航成を見遣る形で顔を上げる。わざとに──口角を持ち上げ、笑って見せた。
「出すならこっちで出せよ、」
「…まだ…、」
覬の身体はきつく航成の指を締め付けている。まだ早いだろう、と顔を上げるも、覬の笑みに煽られたか唾を飲み下す気配があった。更に急かすように覬の指が航成の欲の先端を擽る。互いの先走りでぬるつく熱か手が離れた。剥ぎ取るようにシャツを脱ぎ捨てた航成が覬の片膝の裏を抱えあげつつベッドに乗り上げる。背から抱き込む体勢を取り、己の欲を双丘の奥へと押し当てた。腰を進め、亀頭で窄まりを広げ飲み込ませると、覬の細い背中が波打った。
「ッ…!」
「キッつ…、」
切羽詰まった声が鼓膜を揺らす。縋るように航成の首元へと腕を伸ばした刹那、覬の腰が引き寄せられ、そのまま屹立によって身体の奥深くまでを穿たれた。
「っあ…!ぁ、」
強引に塊を捩じ込まれた覬の身体が一層大きく震えたかと思うと、爪先がぴんと張る。ぱた、とシーツの上に精液を散らし、堪らず喉を反らせて深い呼吸を繰り返す。その唇をも口付けに塞がれ、口端に唾液を伝わせたまま航を軽く睨み上げた。
「っ…、お前、今日…、何焦ってんだよ、」
自分は逃げも消えもしねえのに、半ば毒づくように口にすると、航成が汗の浮く相貌に眉根を寄せた。叱られた子供のように目を逸らすと、そのまま覬の項に額を埋めようとする。顔を見せろ、と今度は覬が眉間に皺を刻んだ。
「……お前が…、…お前がわざわざ、…泊まるとか言うから」
「あ…?」
覬より幾分か口数は少ないものの、普段は歯切れ良く物を言う男がぼそぼそと口ごもっている。覬の視界に辛うじて映る耳たぶがほんのり赤く染まりつつあるのは、行為によって上昇している体温のせいだけではない。誤魔化すように覬を抱く腕に力が込められた。
「…いっつも何も言わねえで泊まっていくくせに…、…今日の夜はお前に触れるんだとか、…変に…意識…、」
たった、それだけなのか。
普段は冷静でいて、飄々と、ともすれば掴みきれないとすら思うこの男が。
この自分が本当に自分に惚れているのかと疑いそうになる男が。
たった一言。
自分の何気ない一言に揺すられ、ペースを乱したというのか。
柄にもなく虚をつかれた思いで覬が航成を見遣る。絶対に顔は見られまいとする年下の恋人の表情は伺えない。触れ合ったままの肌と肌がまたじわりと熱を上げた気がした。
「上がってきたら半裸だし…っ、…余裕とか、…忘れた、」
最後の方はほとんど口の中で消えていった。指摘を受けて我に返ったらしい青年が背後でこれ以上出来ない程に眉を寄せている様が目に浮かぶ。思わず、声が漏れた。
「はは、」
航成の短い髪をくしゃくしゃと掻き混ぜる。頑なに顔を上げようとしない様子を見遣り、額に唇を押し当てた。
「…お前、めんこいんだなあ。航成、」
「ばっ…、めんこい、とか、」
久しく口にしていなかった言葉に訛りが混ざった。半分は意図していたが、航成は案の定弾かれたように顔を上げる。ようやく重なった視線には微かな怒気と羞恥が滲んでいる。したり顔をして見せる覬に航成が軽く下唇を噛んだ。
「…ヨユーとかよぉ…、」
覬がゆっくりと腰を引く。1度吐精して敏感になった身体をぶるりと震わせながら航成の楔を抜いてしまうと、首に絡めていた腕を解いてベッドの上に乗り上げる。汗ばむ身体を放り出し、両腕を航成へと差し出した。
「俺がお前の余裕綽々みてえなエッチで悦ぶと思ってんのかよ」
──なんであれ、対峙する人間を煽るのは得意分野だ。
普段はともすれば神聖な場であると思っているかのような厨房で、黙々と後片付けを行っていた航成の頭の中には確実に自分の姿があったこと。
日頃落ち着き払った男に年下らしい──自分に、情を傾けているからこそ現れた反応を垣間見たこと。
覬はそれだけで嬉しくて堪らない。
それをもっと見せろ。
伝えたい言葉が曲がってしまうのはお互い様だろう。
兎にも角にも、自分はこの男のこの姿が見たくて、この男は自分に触れたくて仕方がなかったのだ。
覬の動向を怪訝な目で見守っていた航成が、掌と共に向けられる不遜な笑みに一瞬ぽかんと目を丸くした後、悔しげに、拗ねたようにほんの少し眉間に皺を刻んだ。抗える筈もない手を取り、覬の上に乗り上げる。自ら開かれる下肢の間にまだ充分に硬さを持った熱を寄せては正面から唇を重ねた。
「来いよ。航成、」
触れるだけなど足りない、と挑発を露に舌先を伸ばす。誘われるままに唇を触れ合わせる航成がその舌を絡め取っては覬の膝の裏を持ち上げた。1度熱を受け入れ、赤く震える後孔に屹立の先端を触れさせたかと思うと、また一呼吸で覬の身体が穿たれた。
「ンン…!」
「は…、覬、」
口付けの合間を縫って呼ばれる名前が熱を含んでいる。浮かされたように腰を使う航成の雄がごつごつと覬の奥深くを叩き、堪らず覬は肩や背に巻き付けた両手にきつく力を込める。広く、均整に盛り上がった筋肉の上に爪が立てられた。
「ぁ、すげ、イイ…、航成…っ、」
幾度も交わされる口付けから逃れてしまうように覬の喉が反る。顕になる首筋に甘く歯を立てることで反応する身体がきゅ、と航成の自身を締め付けていく。両腕で覬の身体をかき抱くように腰を叩き付けると、張った喉仏が歓喜するように震える様が視界に捉えられた。
「っ…、覬、覬、」
焦燥感すら感じさせる声音が覬の鼓膜を震わせる。猥雑な水音を鳴らしながら夢中になって覬の身体を貪っていた航成が不意に身を震わせた。
「ッ…!」
覬の深い箇所に熱が注がれる。じわりと広がっていく液体の感触に不快さは無い。閉ざしていた瞼を開き、航成の硬い肩口に額を寄せて上目遣いに囁いた。
「まだ硬ぇな、」
「…終わりだなんて言ってねえだろ、」
荒い呼吸の応酬は互いに喜色と長髪の色が混じっている。今重なっているのは身体だけではないだろう。視線を重ね、汗に塗れた相貌で笑い合う。顎を上げた覬の唇の角度を追うように航成が唇を寄せ、それを機にするようにまたどちらからともなく腰を揺らした。
◆
煙草が吸いたい。
頭を半分だけ残して覆い隠すように被せられた布団の中でぱち、と目を開け、密かに鼻から息を抜く。覬の右手は航成の右手に捕らえられ、甘く指を絡められて解放されない。左手は空いているが、布団の中、背中から航成の体に包まれるように抱き込まれている体勢ではどう足掻いても喫煙は無理だろう。
いつしか互いに何度果てたのか数えることもやめてしまうほどに激しく長い情交の後、航成が今の体勢を取って覬を離さない。指摘をされての事とはいえ、自ら胸の内を吐露したことによって開き直ったのか、航成は覬の体にぴたりと全身を密着させ、指を握っては開いたり、はたまた指の背を撫でさするように触れたり、項や黒い頭髪に鼻先を擦り寄せたりを繰り返す。下肢はもちろん絡み合い、汗もとうに引いた穏やかな呼吸を聞きながら、この男がこんな風に──どこか甘えるようにも見える身の寄せ方をすることもあるのかと覬は新たな発見をする思いだった。
「なあ。シャワーするか?」
「明日で良い、」
散々身を擦り寄せる癖に物言わぬ航成に話を向けてみるも、想像していた通りの返事が返ってきた。どうせ明日は休日である。異論は無いし、声音には薄く眠気が漂っている。自分もこのまま眠るしかあるまい。やれやれと航成の指を握り締める。美味い料理を作る、職人らしいこの指が好きだと思うと同時に、にわかに空腹を覚えた。
「……俺、あれ食いてえな、」
ぽつ、と呟くと背後で航成が肩を揺らす気配がした。この男は、覬が何かを食いたいだとか、空腹だとか言う呟きを決して拾い落とすまいとする節がある。覬自身は今これから食いたい物だとは思っていない。それでも頭に浮かんだ料理の名を探るも、体を包み込む温もりと、それに引きずられるようにやって来る眠気が邪魔をする。
「なんだよ」
「なんだったっけな、名前…。ほら、あれだ。去年のクリスマスのセットに入ってた…、あの…、四角いべろんべろんしたパスタが入った…グラタンみてえにチーズ乗っけて焼いた…」
昨年の冬、航成が作ったものを食べた。ミートソースとホワイトソースの両方が使われていた記憶がある。寒い夜に、熱いチーズに目を細めつつ食べるそれは随分美味かったが、名前を思い出せない。ぴたりと動きを止めた航成の声がもそりと身を起こす。布によってくぐもっていた音声が明確に聞こえてきた。
「……ラザニア?」
「おお。それだそれだ。ラザニア。あれ美味いよな」
答えが来た、と首だけで振り返って視線を寄越しつつ明るい声を出す覬に、暗がりの中で航成が苦笑する。ぽす、と音を立てて再び先程と同じ体勢を取った航成は軽く捲れた布団を掛け直し、その指で何事も無かったかのように覬の指を手繰り寄せた。
「ラザニアなあ…、」
「なんだよ。去年入ってたのはダメか」
「いや別にダメとかねえけど…、つうか、」
低くのんびりとした声音は緩やかな考え事によるものだろう。手持ち無沙汰の片手を自ら航成の手に触れさせて握り込む。再び全身が密着した。航成が欠伸を噛み殺す気配がする。開店前に市場に食材を仕入れに行くこのコックの朝は早く、休日の前以外は就寝時間も早い。
「メニューに入れなくてもお前が食いてえなら作るよ」
「──…、」
とんでもない殺し文句を向けられた気がしたが、航成にその自覚はあるだろうか。不意をつかれて闇の中で目を瞬かせる様は航成には見えないだろう。──そうか、と覬の中で何かが腑に落ちた。
「…ほんとかよ、」
「嘘言ってどうすんだよ。お前が食いてえならいくらでも作る」
要は、この男が持つ愛情というやつの表現方法の1つなのだろう。
そっか、と呟いたのは口の中だ。擽ったさに小さく笑い、珍しく過ぎる気恥しさに軽く身動ぎする。足りないと思っていたものがたちまち満たされていく感覚がある。やはりこの男から料理は切り離せない。そしてきっと、航成が抱える大切なものの範疇の中に自分は収まっている。
料理のこと以外は疎かになりがちで、不器用な航成。
この男は、伝え方も下手くそだ。
「お前さあ、」
堪えても堪え切れぬ笑みが口元を緩ませた。指先に力を込め、掌を擽った。どうしても声に喜色が乗る。
「俺の事大好きだろ」
「……寝る。寝ろ」
ようやく自分の口にした言葉の意味を自覚したらしい。1拍の間を置いた返しにはわかりにくい照れが含まれていた。
航成が軽く背を丸めて覬の体を包み直す。直に伝わる鼓動を聞きながらゆるゆると擦り寄ってくる睡魔に身を委ねる。やがて、外から聞こえてくる風の音に、2人分の寝息が穏やかに溶けていった。
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