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エブリシング。
夕食くらいは一緒に食おうと提案したのは覬の方だった。昨年のクリスマスの翌日に晴れて恋人と名のつく関係を結び、年が明けた頃から航成と覬は店のソファー席で顔を突き合わせて食事を取るようになった。始めこそ以前──初めて覬と出会った夏、この店でこうして「出会った頃の」覬と座っていたこと思い出しては複雑な顔をしていた航成だったが、それも「今」の覬との時間を重ねていく中でやがて慣れた。今日もまた、航成の手製の鶏の唐揚げを綺麗に平らげた覬が満足そうな顔をして食後の一服をつけている。吐き出す煙を航成に向けないように顔を背ける辺り、それなりの気遣いはしているらしい。その覬が、ふと壁にかかったカレンダーに目を向けると何事か思い出したように体を前に傾けた。低いソファー席の上で、航成を上目遣いに見遣る。
「そうだ。クリスマスさ、何する?どっか行くか?飯食いにとか」
「ねえよ。クリスマスなんて」
即答である。呑気な声音で向けた覬が一度目を瞬かせた後、目を合わせながらも連れない返事を寄越す航成にムッとした顔で唇を尖らせた。
「はあ?なんでだよ」
「なんでもクソもあるか。今年も二十三の夜から二十五の夜まで予約びっしり入ってんだ。ありがてえな。だからお前といる暇なんてねえんだよ」
あれを見て思い出したのかとレジ台の向こうに掛けられたカレンダーに目を向けつつ航成が応戦するも、はたと口を噤む。最後の一言は余計だった。というよりも明らかに口が過ぎた。覬へと目を戻すと、案の定不機嫌さを露にした目が自分を睨み付けている。
「それにしたってもうちょい言い方あるだろうが。クリスマスに一緒にいられねえとかお前は俺のなんなんだよ」
「カレシ」
ごねられたところでどうにもならない。クリスマスは洋食屋にとって年間を通すとほとんどメインのイベントに近い。定休日にする選択肢など有り得ない。一方で、まだ長いままの煙草の先を灰皿に押し付ける覬に向ける返答もまた、あっさりとしていながらも偽りの無いものである。お前は俺の恋人だろう、という共通の認識は間違いなく存在している筈だ。
航成の一言につい気を良くしたように見えた覬は、その一瞬が過ぎてしまうと騙されてたまるかと言わんばかりに眉間の皺を深くした。
「そう思ってんだったらちょっとは努力しろよ!!俺の為に!俺がお前のカレシならお前は俺のカレシなんだよ!」
頭に血が上ると声のボリュームを調節するスイッチが壊れるのはこの男の良くない所ではあるが、ヤクザとしてはそうでなければいけないのだろう。手が出ないだけマシかもしれないと内心で思いつつ、後片付けをしてしまおうと空になった皿を手にして立ち上がった航成が怯む理由は無い。負けじと目を釣り上げ、覬に立ち向かう声量に調節する為に深く息を吸い込んだ。
「ワガママ言ってんじゃねえ!!飯屋と付き合うってのはそういうもんなんだよ!!クリスマスなんて無い!!」
◆
「…で、どうしたんです。その後」
「……帰ってきた」
ようは喧嘩別れだ。この一年、大声合戦の末に覬が店を飛び出したことは今回が初めてでは無い。そもそも覬は元から喧嘩っ早いし、航成は多少の修羅場や怒声には応じる事の出来る程度には年季が入った客商売である。おまけにどちらも頭に血が昇ると口が悪くなる。毎度覬の愚痴を聞いている側近の月岡に言わせると今日の喧嘩も「いつもの事」だ。向けられる報告は愚痴と惚気が混ざり合う。
それでもいつも必ずほとぼりが覚めた頃には航成や航成の作る飯が恋しくなり、覬の方が結局店へと顔を出すことになる。航成は航成で存分に覬の腹を膨らませ、その後に何気なく店の二階に構える自宅に誘うことで応酬を無かったことにし、互いになんとなく喧嘩を水に流すことを繰り返していた。
朝から私室のソファーの上でくだを巻く覬の姿に月岡が鼻から息を逃した。
「…組でしますか?…クリスマス」
「……意味ねえだろ」
ですよね。もう一度溜め息が漏れた。不貞腐れたまの覬はスーツに皺ができることも気に留めずごろごろとソファーに寝転んでは溜め息を吐き出しているが、それが苛立ちと後悔が混ざり合うものだということも月岡は知っている。
「…一緒にいなけりゃ、意味ねえだろ、」
まるで初恋が実った学生のような事を言う。好き合っている恋人と四六時中一緒にいたいなどという思いは大人も子供も同じで、それはなかなか叶わないのも同じだ。
「クリスマスに店に行ったらどうです。いますよ。賢木さん」
「そんな満席の所に行けるかよ」
クリスマスの家族連れやカップルで賑わう暖かな飲食店にヤクザが顔を出すなど不吉も良いところだろう。店に迷惑はかけたくはない。その上恐らく航成は、祝日である二十三日から二十五日までは死ぬほど働き続けて疲労困憊し、その夜はおろか翌日も使い物にはならないだろう。
頭を抱えて何度目かの溜め息をついたかと思うと、覬ははっとしたように顔を上げた
「──いいこと考えた」
「…賢木さんに迷惑掛けないでくださいね」
この若頭が子供のように笑う時は悪戯や悪事を思い付いた時だ。横目で見遣る月岡に、起き上がった覬は口端を持ち上げて目を細める。十二月二十五日、クリスマスの夜、航成は間違いなくステラにいるのだ。
「一緒にいられる場所、あったわ、」
◆
広々としたシンクの中に次から次へと置かれる使用済みの皿やスープの器、サラダボウルやグラスの類に覬は早くもうんざりと眉を寄せている。繁忙期であるこの時期だけ臨時で雇った学生バイトは溌剌と働いているが、スポンジを手に佇む覬は普段の元気も覇気も無い。それでも覚束無い手付きで洗い物を片付け続ける覬の姿は、コックのさり気ない眼差しに見守られている。文字通りに目が回るような忙しさの中、航成はこの臨時の働き手を励ます事を忘れない。
「頑張れよ。今日はあと三回転はするからな」
「…マジかよ…」
二十三日の夜、閉店後に店にやって来た覬は、藪から棒に明日と明後日は俺を使えと申し出て来た。突如何を言い出すのかと思ったが、どうやら覬は覬でクリスマスに自分と同じ空間にいられる方法を考えたらしい。覬の思惑はともかく、人手はいくらあっても良い二日間だ。覬の風貌では接客はさせられないが、これ幸いとばかりに皿洗いを任せることにした。この忙しい中で時間が掛かることは確かにデメリットではあるものの、貴重な人手だということは間違いない。意外にも、覬の作業は丁寧だった。
自分から売り込んできたものの、仕事は思いの外重労働だったのだろう。そもそもこの男が皿を洗ったことがあるのかすら怪しいが、慣れないその分だけ手付きは慎重だ。割ったら言えよ、と告げてあるが今のところ破損は無い。
「はい二番さんのセット上が…、」
出来上がったクリスマス用ディナーのプレートを手に顔を上げるも、バイトがやって来ない。フロアを見渡すと、席を立った客が会計を済ませているレジ台の前に立った青年が眉を垂れてこちらを見ている。もう一人の元からいるバイトも別の客の注文を取っている最中だった。仕方がない、と一度コンロの火を落とし、航成自らソファー席へと料理を運ぶことにした。
「お。こーちゃん。忙しそうだねえ」
「おかげさまで」
客は昼によく顔を出すサラリーマンだった。今日は家族連れで来ている。小さな子供が目を輝かせながらお子様ランチを頬張る姿に双眸を細めつつ、その子供の隣に座る母親であり、彼の妻である女性の前にプレートを置く。華やかに彩られたチキンのクリーム煮に彼女もまたぱっと顔を明るくした。
「そういえばさ、あの奥にいる怖い顔したおにーさん」
「……ああ、はい、」
サラリーマンがちらりと厨房に視線を向ける。中では覬が相変わらず真剣な顔付きで黙々と手を動かしていた。あの男が真面目な顔をすると迫力が増す。
「いつだったか…夏頃にちょっと居たおにーさんでしよ?戻って来たんだ?」
「──…、ええ、」
厨房の中、覬が横に立った時から感じていた既視感の正体を言い当てられた。
夏の、「出会った頃の」覬が去って丸二年以上。
「今」の、あの覬が傍にいるようになって明後日で一年。
後生大事に抱え、しまい込み、自分の足を留めていた煌めくような夏の記憶は、覬と過ごす新たな時間や記憶に塗り替えられて少しずつ遠ざかっていく。それを良しとするか、拒むかは自分次第なのだということは、わかっている。
サラリーマンがニコリと笑った。
「良かったねえ。戻って来て」
「──、…そう、ですね」
こーちゃん明るくなったよ。曖昧に笑う背に、ぽんと投げ掛けられた言葉は不意に航成の中の重りを軽くする。満員の店の中、顔を上げると同じように自分に向けて顔を上げた覬と目が合う。
良かったね。
今があって良かったと、覬は思っているだろうか。
覬はいつも、自分と同じ気持ちでいるだろうか。
「…次。四番さんのセット入るから」
「おう」
厨房に戻り、覬に告げてもあまり意味は無い。それでも、声をかけると何かを返してくれる相手がいる。それが覬であるということは──良かったということなのだろう。
冷蔵庫の奥の奥には、覬と自分の為に用意した上等な肉が待機している。その肉と、クリスマスのディナーセットの予備分と、二階の冷蔵庫で冷やしたシャンパン。二十五日の夜更け頃に催そうとしている二人きりのクリスマスについて、いつ覬に告げようか。そんなことを思いつつ、航成は再びフライパンを強く握り締めた。
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