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第3話 わたあめと告白

 男同士とはいえ、本条を性的な対象として見てしまっている有坂は揺らいだ。  しかし、本条はどう思っているかわからないし、夢の中で会っていただのセックスしただのとバレたら軽蔑されるに違いないと有坂の背中に冷たいものがつたう。有坂が口にしない限り明かされることはないが、本条の余裕のある大人の目にはすべて見透かされていそうな気がしていた。  だからと言って、本条の家に行ってみたいという欲求には勝てず、また、自分が本条を襲う度胸もテクニックもないと思い直し、 「い、行きます」 と答えたのであった。  コンビニで酒とつまみを買うと、本条は数分歩いた先にあるマンションに有坂を招いた。  床も照明も壁も、どこもかしこもピカピカのマンションは、金と手間をかけて磨かれているのが見てとれる。平凡な学生である有坂にとって場違いな気がしてならなかった。  本条は五階までエレベーターで上がり、玄関の横の黒い画面に手のひらを当てる。静脈のセンサーが一瞬血管の位置を透かして本人だと認証された。次にドアのボタンを押して鍵を開ける。 「ただいま」  本条は部屋の明かりをつけた。  有坂はぐわんと眩暈がした。リビングルームのローテーブルとテレビボードの配置、カーテンやラグの柄まで見覚えがある。そして右手にダイニングキッチン、更に奥にはバスルームと寝室があることが"分かっている"。目眩で酔いそうになり、頭がガンガンする。  すべて、夢で見た通りだ。現実と夢が今まさに混じり合っており、ものの輪郭がぐにゃぐにゃと歪んで床が波立つ。立っているのもやっとである。過呼吸になりそうなのを深呼吸で抑えた。 「おいで。遠慮しないで」  本条の声に我に返った。クリアな視界が戻ってくる。有坂は靴を脱ぎながら、密かに息を整えた。  本条はコンビニの袋をリビングの中心にあるローテーブルの上に置き、部屋の隅にあるケージに近づく。ペットシーツが敷き詰められたケージの中はアンモニアの匂いがツンと鼻を突いたが、ふわふわの真っ白なウサギが木でできた小屋から顔を出すと、有坂はわあ、と顔を綻ばせた。 「かわいい」  ぴすぴすと忙しなく動く鼻先に手を近づけると、本条はその手を掴んだ。 「駄目だよ。エサと間違えて噛まれることがあるんだ」  有坂は本条から触れられ胸が高鳴る。赤面しそうになりすぐ手を引っ込めてしまった。  ウサギの"わたあめ"は、その小さな身体と可愛らしいフォルムから想像もつかないほど強くダン! と後ろ足を踏み鳴らした。有坂は思わず肩をすくめる。 「警戒されてる」  本条は困ったように笑い、今日は見るだけね、と有坂に諭した。  本条は寝室に行き、スーツからTシャツと綿のパンツに着替えてきた。それからペットシーツを取り替える。ケージの天井を外してペレットを乗せた皿を入れると、わたあめはふんふんと鼻を鳴らして顔を突っ込んだ。猛烈な勢いで口を動かしてボリボリとペレットを噛み砕く。 「意外とパワフルですね、ウサギって」 「そう、結構気性が荒いんだよ。慣れるとかわいいけどね」  そこで、有坂はハッとした。夢の中に、ウサギは出てこなかったのである。なぜ今になって気づいたのか。浮かれすぎて馬鹿になっていた自分を悔いた。もしかすると、本条は夢に出てきた相手ではないかもしれない。有坂の顔から血の気が引く。勘違いであったのなら、ここからどうしていいかわからない。  飲もっか、と本条は立ち上がる。手を洗い、アルコールジェルをつけてからローテーブルの座椅子に腰掛けた。無言で酎ハイのプルトップに手をかけ、顔を見合わせて乾杯する。有坂はすでに胃がキリキリと痛んだ。  スナック菓子の袋を開け、酎ハイを口に含んだ時だった。 「ねえ、この前の話もっと聞きたいんだけど。ダメかな」  ぎゅう、と胃が絞られるように痛んだ。ストレスをかけられる内臓が悲鳴をあげる。 「あの……それ、勘違い……かもしれなくて」  本条は訝しげに眉根を寄せる。ぴりっと緊張が走り有坂は泣きそうになった。 「す、すみません。いなかったんです、ウサギ」 「どういうこと?」 「で、出てこなかったんです。一度も。夢の中にウサギは、出てこなかったんです」 「夢の中って?」  酔いが回ったと言い訳するにはまだ早すぎた。有坂は羞恥と混乱でしどろもどろになりながら、夢の中に本条が出てきたこと、本条とデートを重ねたこと、その夢は事故にあってから見るようになったこと、本条の家も夢の中で見たが、ウサギはいなくてケージすらなかったことを伝えた。  本条は呆然と有坂を眺めている。やはり信じてもらえないだろう、信じてもらえたとしても、本条が男とデートしていたと聞きどう思ったのか。有坂は怖くて聞けなかった。 「やっぱり、君だったのか……」  本条の声が掠れて震えた。 「僕のことを……覚えていてくれたのか」  テノールの声と大きな目が涙に濡れた。突然涙を流して嗚咽を漏らす本条に、有坂は戸惑いを隠せない。   蹲り肩を震わせる本条の横でおろおろと目線と手が彷徨う。やがて本条は鼻を啜りながら起き上がる。  そしてテレビボードの横の、長方形の箱の扉を開けた。観音開きの扉の向こうにあったのは遺影だ。これは仏壇なのだと有坂は悟った。遺影の中にいたのは線の細い美青年だった。本条をギリシャ彫刻の英雄に例えるなら、こちらの青年は絵画の中のたおやかな女神のようであった。 「僕の恋人なんだ」  恋人、という単語に有坂の胸は軋んだ。 「雅也も交通事故にあって……身体は無事だったけど頭を打ってたみたいで、脳からの出血に気づかなくて、病院に行った時にはもう手遅れだった」  一緒に住んでたのに、と床に落ちた言葉には、途方もない後悔と嘆きが込められていた。 「でも、雅也は死んでなんかいないよ。今も生きている」  振り返った本条の顔はなぜか微笑んでいて、有坂はゾクリとした。本条はスマートフォンの画面を有坂の前に突き出す。悲鳴をあげそうになった。スマートフォンの電話帳の連絡先には、森原雅也と言う名前がびっしり並んでいた。その横に、本条の形のいい指先が添えられる。 「脾臓だよ」  何を言われたのかわからなかった。有坂の思考が止まる。 「腎臓、大腸、血管、心臓、大腿骨、腹斜筋に横隔膜に骨盤」  本条は上から順に連絡先の名前を指差していく。有坂は本条が言っていることの意味がわからず、ただ恐怖に震えている。 「角膜。これが君だよ」  ぴたり、と何番目かの森原雅也という名前の横で、本条の指が止まった。本条の言葉を、そして行動の意味を反芻する。理解したくないと直感が叫ぶが「調べたから間違いないよ」と、あの雨の日に持っていた茶封筒の中身を見せられ今度こそ絶叫した。  その書類には、提供者の欄に森原雅也の名が、そして患者の欄には有坂スバルと記されていた。  有坂は咄嗟に本条の手を払い除けた。白い書類が宙を舞う。有坂は這うように玄関に向かった。 「お願い、逃げないで」  背中からのし掛かるように本条に抱き留められる。あんなに触れられたいと、抱かれたいと夢想していたのに、今は拒絶反応しか出てこなかった。腕や足をめちゃくちゃに振り回す。それでも一回り大きい本条の身体からは抜け出せない。 「君が話したこと、全部合ってるよ。行った場所も、のぼりの色も、ウサギのことも全部。わたあめは、雅也が居なくなってから飼い始めたんだ。君のこと、僕は信じるよ」  有坂はピタリと暴れるのをやめた。信じる、という言葉が鎮静剤のように、昂った神経を鎮めていく。 「もう少しだけ、僕の側にいてよ。せめて、お別れのための時間が欲しいんだ」  有坂の呼吸に合わせて、心臓が鼓動を刻む。呼吸音と心音がやけにうるさい。目に張る水の膜がどんどん厚くなる。 「一緒に行ったところの話をしてさ、美味しかったもの食べてさ…………僕といた時の雅也の思い出を持っているのは君だけなんだよ」  本条が求めているのは、有坂ではない。かつての恋人だ。誰も有坂自身を求めていない気がして、有坂が懸命に守ってきた自分というものが消し飛びそうで怖くなる。  それでも、あの夢の中の優しさと温もりに幸福を感じていたのは有坂自身の感情で本心だ。今でもそれに焦がれてしまう。有坂の身体を掻き抱く腕は、夢の中と同じ感触と温度を持っている。手を伸ばせば、すぐそこにある。 「お願い。なんでもするから」  有坂は選んだ。それも、最善とは言えない選択だった。 「じゃあ、…………じゃあ、本条さんは、俺を抱けるんですか」  本条からの返答はなかった。 「だ、だって、夢の中でも、そういう…………」  有坂の顔が燃えるように熱くなる。 「……本当に、いいの?」  本条の問いかけに、どくん、と一際大きく心臓が脈打つ。この関係は結んではいけないと思いつつも、望んだ通りの結果を得られる期待が膨れ上がった。 「少しの間だけ、僕の恋人になってくれる?」  本条の甘い囁きに、有坂は抗えなかった。乾いて張り付く唇を開き、有坂ははい、とか細い声で答える。  自分はとんだお人好しで、ずるい人間だと思った。こんな関係は不毛に違いないのに、現実の本条を一欠片でも手に入れたかった。ほんの少しでも好きになってもらえたらという、祈りにも似た夢想を抱く。  身体に回された本条の手を握る。有坂の手は震えて、その力はひどく頼りない。  それが合図だった。  背後から顎を掬われ唇が合わさる。有坂は身体を捻って本条の舌を受け入れた。  

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