8 / 8

第8話 独りで、そして一緒に

 有坂は本条の手を剥がそうとするが、指先がわずかに持ち上がるだけで外せない。 「雅也だけだったんだ、みんなと一緒に笑ったり泣いたり出来ない僕に気づいたのは。楽しいフリしたり悲しいフリしたりしてみんなに合わせてたし、僕が笑ったり泣いたりしたらみんなもそうしてた。 ウサギにひどい実験をしても、僕だけがなんとも思わなかったし全然平気だった」  ウサギの話をしていた時の、虚な眼差しを思い出した。あの時は嘘をついていたのだと、普通の人間が思うであろうことを探っていたのだと気づく。 「でも、雅也だけが、僕を見て"気色悪い"って。"嘘つき"だって。でも、"それでもいい"って。僕が"好き"だって」  ウサギのように赤くなった本条の目からは、大粒の涙がボロボロこぼれ落ちた。 「雅也がいなくなったら、雅也以外に、誰が僕を愛してくれるっていうんだ!!!」  これが本条の孤独と執着の正体なのだと、有坂は悟った。恋人がいなくなるのは、たった一人愛してくれる人間がいなくなるのは、本条にとって誰もいない世界で独りぼっちになるのと同意義なのだ。  このウサギよりも寂しがり屋で不器用な男に、なんと声を掛ければよいのだろう。どうすれば、本条が呪いにも似た執着から解放されるのだろう。必死に頭を働かせるも、口をはくはくと開けて酸素を取り込む方に意識の大部分を割かれる。  先ほどから有坂の目はかすみ、いよいよ意識が飛びそうになる。死ぬのだろうかとやけに冷静に思った。  しかし、最期に、どうしても伝えたい事ができた。  有坂は鼻から息を吸い、なるべく大きく口を開けて、掠れた声とも言えない音を喉から搾り出す。 「好き……です……本条さ……」  本条は息を飲み、わずかに首を絞める手の力が弱まる。有坂はすかさず引き剥がして咳き込んだ。本条は膝から崩れ落ち、呆然と自身の手を見つめる。 「俺は、本条さんを、愛しています…………」  有坂は本条の目を見て言った。本条は信じられないという風に首を振る。 「だって、僕がそういう風にしたんだ…………」  本条は俯く。 「君に会ったのだって、偶然じゃなかった。君のことを調べて待っていた。わざと揺さぶって甘やかして、して欲しそうなことをして、かけて欲しそうな言葉をかけて、僕から離れられないようにしていっただけだよ」  初めて本音を晒した本条の顔は羞恥と動揺に歪み、隠すように顔を覆った。 「なんだ…………本条さんは、最初から俺を口説きにきてたんじゃないですか」  有坂が顔を綻ばせると、本条は目を丸くする。自分のことも見ていてくれたのだと不思議と嬉しさが込みあげる。気持ちも口も軽くなり、するすると言葉がでてくる。 「ねえ、本条さんは、雅也さんの前では嘘を言えなかったんでしょう? 本当の姿を、見せていたんでしょう?」  本条はただ唇を噛み締めるだけだった。 「俺が夢で見た、雅也さんの目から見た本条さんは…………いつも笑ってて、すごく優しくて、大事にされてるなっていうのが伝わってきて…………」  有坂の声が震えてくる。その感情が向けられていたのが恋人に対してだとしても、本条の優しさや温もりに触れて有坂に芽生えた恋は、間違いなく有坂のものだった。そして 「俺は、本条さんを好きになってました。今でも好きです。夢を見なくなっても、……何をされても」  有坂が泣き笑いを作ると、本条は縋るような目を向ける。 「本条さんを、愛しています」  本条の顔から翳りが霧散していき、目に光が差す。ずっと周りの人間に嘘をつき続け、誰も自分の本心を知らないし自分は異質なのだからと隠してきた。雅也のような人間に会えたのは奇跡だと思っている。冷酷で酷薄で他人を操って好意を集める自分を愛してくれる人間など、もう現れないと絶望していた。しかし有坂は、本条がすべて曝け出しても愛していると言い切った。心に刺さった楔が抜けていく。奇跡は二度起きた。有坂の背後から光が差して見える。すべてを許し浄化する神のように。  本条は殉教者のように有坂を見上げ、眩しいものを見るように目を眇める。 「……ありがとう。僕も」 「……嘘ついちゃダメですよ」  有坂は本条の逃げ道を封じる。執着の対象を有坂に変え依存するのは簡単だが、それでは共倒れになってしまう。本当は有坂も、本条と甘美な歪みに身を委ねてしまいたかった。  本条は俯いて、視線をあちこちに彷徨わせている。迷子が必死に正しい道を探しているようだった。有坂はその手を導くようにそっと握る。 「本条さん、俺、何があっても嫌いになんてなれませんから。わかるでしょ? 本条さんだって死んでも雅也さんを手放さなかったんだから」  本条は眉を寄せ、大きな目は揺らいだ。しかし観念したようにきつく目を瞑り、ついに口を開く。 「…………ごめん、まだ……好きな人がいるから、っ君とは付き合えない」  有坂は頷いて、その返事を正面から受け止める。 「ちゃんと…………お別れするから、僕を待っててくれる…………?」  恐る恐る顔を上げる本条に、有坂は笑みを浮かべながらも首を左右に振った。 「だって、本条さんは俺のこと好きじゃないでしょう?」  本条が有坂に向けているのは恋愛感情ではなく信仰心に似たものだ。一緒にいれば新たな依存と執着が生まれるのが目に見えている。本条は再び黙り込んだ。 「でも、俺は本条さんが好きだから、ずっと忘れないから、独りじゃないから、それだけは、覚えておいてください」  有坂は、静かに手を離した。本条は抜け殻のようになって俯いたままで、有坂はそっと踵を返す。  ふと物音がした方を見ると、わたあめがケージの隙間に鼻先を突っ込みぴすぴすと鼻を鳴らしていた。有坂は小さく手を振り別れの合図を送る。 「有坂くん」  本条に名を呼ばれ、思わず有坂の足が止まる。初めて有坂の名前が本条の声音に乗った。 「…………元気でね」  有坂は背を向けたまま無言で頷き、玄関を出てマンションを後にした。その後、有坂がそのマンションに訪れることは二度となかった。    自分のアパートに向かって有坂は歩を進める。梅雨のじっとりとした空気を振り払うように、有坂の歩くスピードはどんどん上がる。そのうちに有坂は夜風を裂いて走っていた。  取り替えられた心臓は強く鼓動し、完璧に繋がれた神経は力一杯手足を動かした。潰れたはずの肺は移植されて機能を取り戻し、痛いほど空気を取り込み吐き出す。その目は真っ直ぐ前を見据え、まともに空気の抵抗を受けてポロポロと涙を零した。  "生きている"と心の底から実感し、歓びが湧き上がる。有坂はこれといった特技も打ち込めるもの将来やりたいこともない。ただ生きているだけの、どこにでもいるような青年だ。それでも生きていていいのだと、有坂は許された気がした。  それからも有坂の日々はいつもの繰り返しだ。決まった時間に起きて決まった朝食を食べる。内容はカフェオレからパンとインスタントの野菜スープに変わった。少しでも健康でいようと、自分の身体をもっと大切にしようと思った。  自分の身体を作っている者たちは、少なくとも何人かは、誰かに愛されていたに違いないのだから。それは、本条が心から恋人を愛していたように。  それでも鏡の前に立つと、いつものように見慣れた他人が映っていた。それがどうにもまだ慣れないが、少し馴染んできた気もする。今日も何か言いたげな目で、鏡の中から有坂を見つめている。  しかし、不意にふっと口元を緩めた。 「……今日もよろしく」  鏡の中の有坂は、口の両端をほんの少し上げた。  そしてリュックを背負い、確かな足取りでいつもの道を征く。雨上がりの道は眩い日差しが降り注ぎ、夏の兆しを見せていた。 end

ともだちにシェアしよう!