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第7話 結び目
有坂から呆れや憤りや哀しみがごぷりと溢れ、瞬時に混ざり合う。名前をつけられなくなった感情たちがぐらぐらと腹の中で煮え始めた。
「何してるんですか?」
「心臓の音聞いてた。生きてるって感じがするよね。涙が出そうになる」
本条は青年の胸を撫でた。青年は関心が無さそうにスマートフォンをいじり続けている。有坂の喉が灼けつき言葉に熱が篭る。
「俺たち、今付き合ってるんですよね」
「うん、そうだね」
「じゃあ浮気じゃないですかこんなの」
「言っとくけど、オレこの人とセックスもキスもしてないから」
青年がスマートフォンに目をやったまま言う。そしてボディバッグを背負った。
「オレそろそろ行くね」
「うん、またね」
本条はおもむろにスマートフォンを出し、青年のそれにかざす。ゼロが四つほどついた金額が青年のスマートフォンに送金される。
有坂は絶句するが、すれちがい様に青年の腕を掴んだ。青年は不愉快そうに眉を顰め、有坂を上から下まで見る。
「オレ、アンタと違って金ないんだよね。だいたい取られたくないならもうちょっと努力したら?」
有坂の顔が屈辱と羞恥に赤く燃えるが、青年は磨かれた爪がついた手で有坂を振り払い、毛先まで手入れされた金髪を翻して出ていった。
煮詰められた有坂の憤りは本条に向かった。
「誰ですか、何でお金払ってまであんな……!」
「心臓の移植手術をして、借金を作ったんだって。自分で働いて返してるんだって」
有坂は心臓、移植、という単語に、まさか、と戦慄する。
「恋人なんだから、助けてあげるのは当然でしょ?」
青年は、本条の恋人の心臓を持っていたのだ。
「もしかして、今までもお金」
「まあね」
本条はうっすら隈のできた目元を照れ臭そうに掻く。働き詰めだったのはこのためだったのかと有坂は衝撃を受ける。
「だって、雅也には長生きして欲しいからね」
本条は朗らかに笑う。
常軌を逸している、狂っているという嫌悪がぶわりと湧くが、それ以上に強烈に噴き出したのは嫉妬だった。自分以外にも、あんな風に触れていたのか、あの青年も自分も恋人の一部でしかないのか。
積み重ねてきた時間は突き崩され、少しは有坂自身に好意を向けられているのではないかという希望は打ち砕かれた。
有坂は拳を握りしめて戦慄いた。ぐらぐらとマグマのように煮えたつ感情が遂に噴火する。
「もうとっくに死んでるんだよ! アンタの恋人は!」
有坂は本条の胸ぐらを掴んだ。
「死んだらもうどこにもいない! 肉体だけ残ってもそこに魂なんて残ってない! 俺の身体はほとんど他人で出来てるけど、誰かの意思なんて残ってないし、俺の中にいるのは俺だけだ!」
そう叫んだ瞬間、有坂はハッとした。ぷつんと|錘《おもり》のついた糸が外されたように、身体が驚くほど軽くなる。胸ぐらを掴む手が緩んだ。
怒りや嫉妬とともに押し流されてきた、胸の片隅に眠っていたものを離すまいと、有坂は自身の胸のあたりをくしゃりと握る。
「心だって……俺だけの……」
ずっと、借り物の身体の中にいる感覚だった。自分の心が糸の切れた凧のように、ふっと飛んでいきそうな気がして怯えていたが、その糸が、玉の緒がしっかりと結びついたような安心感を覚える。
自分の居場所は、答えは、ずっと有坂の中にあった。
「雅也はちゃんといるよ、君も見たでしょ」
本条は有坂の頬を両手で包み、目を覗きこむ。有坂は首を左右に振った。
「俺、もう夢を見なくなりました」
本条の目が見開かれる。傷ついた子どもに似た目はガラス玉のようで、取り扱いに注意せねば壊れてしまいそうだった。
「もし……もし俺の目に雅也さんが夢を見せてたなら、もう、満足したんじゃないでしょうか」
夢の中で、雅也が言っていたことを思い出す。
「……雅也さんにも、お別れの時間が必要だったのかも」
「嘘だ! 雅也……!」
本条は有坂の言葉を遮って顔を近づけるが、有坂の目には自分の顔が映るばかりだった。
有坂は今頃になって、自分の名は一度も呼ばれたことがなかったなあなどと余計な事に気づいてしまい鼻の奥がツンとする。
「本条さん、ちゃんと、お別れしましょう。じゃないと本条さんまで死んじゃうよ……」
有坂は泣きそうになるのを堪えながら本条の手をとり、離した。
本条にとって恋人を手放して見送るのがどんなに辛いことか、有坂には分かっていた。本条がどれほど恋人を愛していたか、どれほど慈しみ大切にしてきたか、誰よりも知っていた。すべてこの目で、雅也の目を通して見てきたのだから。
「嫌だ……」
本条の手が、有坂の首にひたりと当てられる。
「雅也が、雅也がいなくなったら、僕は……!」
本条の指先は徐々に力が込められて、有坂の首に食い込んでいく。
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