92 / 469

第91話

「そうですか、殿が。知らず失礼を」  頭を下げた紫呉に、東郷は慌てたように首を横に振り、顔を上げるよう促した。 「いんや、おいの方こそ、すんもはん。近頃ここらで怪しいもんがおるっちゅう話があったもんで、警戒しとったもんですから」  どうやら東郷はその〝怪しいもん〟を警戒するあまり、突如訪問した家老の客も何か関りがあるのではないかと警戒していたらしい。そのようなことを、おそらくはうっかりなのであろうが紫呉に話してしまっても良いのか? と疑問は残るが、きっと彼は正直者なのだろうと思って、紫呉は言葉にされなかった真実に気づかないフリをした。 「怪しい者とは、この薩摩で命知らずですね。どこかの浪人でしょうか?」 「あぁ、いや、そげな〝怪しい〟じゃないみたいで」  おそらくは東郷もどう言葉にしたら良いかわからないのだろう。渋い顔をして腕を組みながら首を捻っている。 「別に徒党組んどるっちゅうわけでもないし、刀持ってるわけでもないみたいで。けんど、町の者は〝バケモン〟を連れてると」 「バケモン?」  これはまた、随分と風変りな話だ。確かに古来より妖などの話は聞くが、化け物とは珍しい。しかし町の者が幾人もそう言うということは、単なるホラ話というわけでもないのだろうか? 「ええ、話の全部を信じてるっちゅうわけじゃないけんど、まだ何もわからへんきに、春風様がお戻りになる時も、どうぞお気をつけて」  近頃は何かと物騒だ。幕臣でも安心はできない――否、幕臣だからこそ命を狙われることもある。化け物というのはよくわからないが、警戒しておくことに越したことは無いだろう。 「かたじけない。肝に銘じておく」  しっかりと頷いた紫呉に、東郷は人懐っこそうな柔らかい笑みを浮かべた。

ともだちにシェアしよう!