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第289話

「では、そろそろお邪魔しますね。お多恵さんがお帰りになったら、お忙しいでしょうから」  ではこれで、と言う雪也に末子はニコニコしたまま手を振る。籠を持って暖簾をくぐろうとした時、丁度お多恵が帰ってきてぶつかりそうになり、雪也は慌てて立ち止まった。 「きゃッ」 「ッッ――。ごめんなさい、お多恵さん。大丈夫ですか?」  小さく悲鳴を上げてよろけそうになったお多恵の腕を、雪也は咄嗟に掴んで支える。そんな二人の様子に末子が立ち上がりかけた時、多恵の様子を見ていた雪也の頭上に影がさした。 「こんな所でお前に会うとは、なんという偶然かのぉ」  落とされたその声に、雪也は大きく目を見開く。ゾワリと背筋に何かが走り、知らず手が震えた。そんな雪也に構うことなく、ネットリとした、恐ろしい声は耳に響き続ける。 「久しいなぁ、〝ゆきや〟」  弥生達に呼ばれるのとは違う、まったく違う、その名。過去に捨てたはずのモノが、そんなことは許さないとばかりに手を伸ばして雪也を掴み、地の底に引きずり込もうとしてくるのがわかる。崩れそうになる身体をなんとか保たせ、震える足に力を籠める。恐る恐る視線を上げれば、そこには決して忘れることのできない過去があった。

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