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第290話

「雪也さん、お知り合い?」  雪也の名を呼んだからだろう、多恵がキョトンとしながら問いかけてくる。しかし雪也にはその問いかけに応えるだけの余裕はなかった。  助けて、と雪也は胸の内で叫ぶ。だが、かつて助けてくれた弥生は今、遠く離れた倖玖の地だ。助けなど来ない。 「春風殿に囲われているのかと思えば、なんじゃ、もう飽きられて捨てられたのか? このような粗末な衣を着て、さぞ不自由しているのだろうなぁ」  憐れだ。本当に憐れだ、と繰り返すが、その瞳には憐憫などなく、ただ楽しく、淫らな欲だけが光っている。 「相変わらず、いや、あの時よりもうんと美しくなったなぁ、ゆきやよ。流石に春風家を敵に回すわけにはいかぬゆえ、お前の代わりになる者を探しておったが、やはりお前ほど美しい者はおらなんだ」  やはり手を離したのは間違いであったか。そうブツブツと呟く目の前の男――松中は、いやらしさを隠そうともせず、雪也の髪を手に取る。クルクルと雪也の髪を掌で遊ばせる松中と、何も言葉にできず固まる雪也を、末子と多恵は信じられないものを見るような目で見ていた。  町人の誰も知らない雪也の過去に、この近臣が関わっているのか?

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