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第364話

「蒼……」  それ以外の何も持たないというかのように、湊は蒼の名だけをポツリと呟く。パタンと帳簿を閉じて、蒼は湊に視線を向け、ふわりと微笑んだ。 「さて、そろそろ春風家に野菜を届けに行かないと」  今回もいっぱいだからね~、といつものようにほわほわした話し方に戻った蒼が立ち上がった時、彼の父親が店に帰ってきた。息子である蒼には手をあげて軽口をたたくが、湊を見た瞬間、彼の笑みはぎこちなくなり、視線を彷徨わせている。  いつもは彼が帰ってくる前に店を出ていたので、久しぶりに見るその顔に湊も自然と俯いてしまう。瞼を伏せ、髪を隠そうと無意識のうちに手が彷徨った時、上げられた蒼の手刀が父の頭に振り下ろされた。 「イッッ――!! 何しやがんだッ!」 「視線がうるさい」  父の怒鳴り声も気にすることなく、蒼はそれはそれは素晴らしい笑みを浮かべている。その姿をポカンと見つめていた湊は、思わずクスリと小さく笑った。

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