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第650話

 男は由弦の側にサクラを降ろす。迷いなく歩き、サクラは由弦の頬をペロペロと舐めた。いつもなら由弦はすぐに起きて、寝ぼけ眼のまま頭を撫でてくれる。だが、いくら舐めようと、頭を擦りつけようとその手はピクリとも動かなかった。  クゥクゥと小さく鳴いて、サクラは由弦の頬に顔を寄せると、ぴったりとくっついて身体を丸めた。静かなその動きが、声が、何よりも雄弁にその心情を表し心を締め付ける。 「これから、蒼さんを火野さんの店に連れて行きます。その後で、春風様のお屋敷に行って雪也さんたちをどうするか相談しに行きます。春風様のことですから何もしないということは無いと思いますが、いざとなれば私が責任もって弔います」  すべてが決まればサクラも春風の屋敷か、あるいは男の方で引き取ると、不自然なほど淡々と男は告げた。きっとそうしなければ声が震え、激情を抑えることができなくなるからだろう。彼は雪也にとても親身で、薬を貰いに来る度に由弦や周の事もなにくれとなく気にかけていたから。 「外にいた者達は逃げて行ったようですが、いつまた襲撃されるか分からない。落ち着くまで、ここは危険だと思って良いでしょう。あなたは、どうしますか?」  問いかけられて、けれど湊は返事をすることができなかった。頭がボンヤリとして、もう何も考えることができない。ただただ蒼の冷たい手を握りしめる。

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