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第686話
「ですが、今この時に春風家を手放すのがどれほどの痛手になるかわからぬほど芳次公も愚かではありますまい。流石に、ご当主や弥生殿に手は出さぬのでは?」
今に始まったことではないが近臣たちも己の欲や保身、矜持を一番に考えており、将軍第一ではなくなっている。表向きには恭順を誓っているが、彼らは将軍の有益な駒になるどころか一歩間違えれば離反する危険因子だ。それでも強大な武力と権力を持っていたかつてであればさほど問題ではなかったのだが、今は命取りになるだろう。現に今、将軍であるはずの芳次は思うように動くことができていない。茂秋よりも誰よりも才ありと言われたその人が、春風の手を借りなければ身動き一つとれないのだ。今は百の近臣よりも一の春風が将軍の力となっている。そんな状況で唯一の忠臣を手放すほど芳次は愚かではないはずだ。
それは子供でもわかるほど簡単な正論であるのに、東の領主はどうしても胸に違和感を覚えてならない。この、気持ち悪い霧のようなものは何だ。
「もちろん、その通りだろう。それは私もわかっている。本来であれば春風家は守られてしかるべき立場だ。芳次公からすれば決して手放したくない最後の手駒だろう。だが、どうにも嫌な予感が消えんのだ。衛府は将軍が頂点に立っているが、将軍だけで成り立っているわけではない。そして今の衛府を作っている近臣はどうにも矜持ばかりが高く短慮だ。芳次公が春風家を守ろうとしたとて、あの近臣全員がそれに同意するだろうか。何より、芳次公もまた人間だ。感情がある以上、どう転ぶかわからない。今は春風家だけが頼りだ。手放しも傷つけもしないだろう。だが……すべてが終わった後は? 何かしらの決着がついた後、それでも芳次公は春風家を守ってくださるだろうか」
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