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第704話
「振り返っては駄目だよ」
耳元で囁かれるそれにハッと弥生は目を見開く。後ろから伸ばされた手が手綱を握るそれに重ねられた。
「振り返れば迷いが出てくる。でも、今は迷ったが最期だから、振り返っては駄目だよ」
嫌な予感は消えない。優も〝大丈夫だ〟とは言わなかった。だが、嫌な考えと美しすぎる願望に挟まれて気持ち悪く蠢いていた弥生の胸はスッ、と落ち着きを取り戻す。
「弥生、もしもここで戻ってすべてを無に帰しても後悔しないというのなら、僕は止めない。紫呉ほどの力は無くても、それでも全力で弥生を守って、紫呉や月路の安否を確かめさせてあげる」
優は武人ではないが、願いを叶えるのは何も力だけが頼りではない。優には優の力があり、戦い方がある。彼がやると言ったのなら、必ず弥生の願いを叶えてくれるだろう。
「でもそれをしたら弥生はきっと後悔する。今、引き返さなかった後悔よりも、もっともっと、後悔する。弥生は、切り捨てることを良しとはしないから」
切り捨てられないから、紫呉と月路の安否を気にしてしまう。振り返って、否、このまま馬で引き返したいとの願いが消えないほどに。けれど、それをしたら最後だ。帝から預かった文は役目を果たすどころか悪用され戦火の駒となり果てるだろう。衛府と尊皇派の衝突は避けられず、その思考に関わらず人々は必要な犠牲と謳って命を散らしていく。
弥生は捨てられない。紫呉たちも、顔すらわからない無辜の民も。
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