930 / 981

第106話

 あの日、手を、差し伸べてくれたのは――。 「……お前、記憶が……」  あの、優しく、残酷で、とても温かかった、短い陽だまりの日々を。 「いや、そんなはずはねぇ。お前は確かに覚えていなかったはずだッ」  紫呉は混乱し、視線を彷徨わせる。そう、由弦に記憶はなかったはずだ。彼は紫呉を見て何の反応も示さず、余所余所しかった。これが雪也や湊であったなら演技だった可能性も捨てきれないが、由弦はそんな器用な男ではない。たとえ生まれ変わったとしても、その真っ直ぐで素直な魂は何も変わらないことを紫呉が誰よりも知っている。彼は、良くも悪くも嘘をつけるような人間ではない。 「紫呉……、先輩、覚えていなかったってことは、何か知ってるのか? これは、何なんだ……。あんたは、おれは、誰なんだ……」  やっと会えたと喜ぶ自分がいる。濁流のように押し寄せる記憶に由弦は唇を震わせた。  心が、追いつかない。 「俺はサクラを置いて逝ったッ。帰ってくるって約束したのに! それに、雪也に、あんたが手を――ッ」  言葉に表すことのできない苦しみ。後悔。執着と恐れ。たくさんのモノが押し寄せてきて由弦はボロボロと涙を零した。

ともだちにシェアしよう!