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第1話

初めて彼の部屋に入った。 読書好きな彼の本棚には、綺麗に並べられた分厚い本たち。 彼がよく好きだと言っている文豪の本が勢揃いしている。一冊、取り出して眺めてみる。読書好きな彼は、この人の言葉で育ったんだと一瞬泣きそうになった。 本を戻すとき、なんとなく本の奥の隙間に手を伸ばしたら、薄っぺらい冊子のようなものを捕まえた。まさか、エロ本じゃないのかとニヤけたのも束の間、表紙に描かれたかわいそうな男の子の姿が目に飛び込んできて、俺は悟った。 ああ、そういう趣味ね。 ベッドに寝転がって、澄ました顔で本を読んでいる彼の正体が見えた気がした。 彼の恋愛対象は、男は男でも、男の子なんだと。女嫌いで有名な彼は、もしかしたら俺を好きになるかもしれない。そんな期待が粉々に打ち砕かれて、心の中では泣いているのを顔には出さないように必死になって笑った。 綺麗に並んだ有名文学作品の後ろの列には、ひっそりと薄い本が並んでいる。 悲しい。自分が成人してることが悔しい。俺だって、彼みたいな男にあんな風に、 その先はもうずっと頭の中の妄想でしかない。 ——- 中学生になって初めて見たそういう本が、普通ではなかった。あ、見ちゃダメだ。と閉じるより早く、その内容は目に焼き付いた。その瞬間、自分の性癖は大きく軌道をズレて元には戻らなかった。 自分は一生まともな恋ができない。そう気づいたのは高校生のときだった。海にみんなで遊びに行ったとき、俺は正気の顔をして、水着ではしゃぐ女子と男子の隙間に写りこむ小さい子どもの姿を写真に撮っていた。 誰にも気づかれていない。普通を装う俺の隣で、派手な水着の女子が冗談めかして笑う。 鈴木の取る写真さ、男の子写り込みすぎじゃない? 偶然だろ、小さく震え出す俺に、冗談だよと楽しそうに笑う女。一瞬目があって、これは冗談ではないと確信した。女は危ない。気づかれたら、誰かに漏らされたら俺は牢屋行きだ。それから女を極端に避けるようになった。 現実ではありえない、ありえてはいけない妄想の数々で満たされる日々を過ごした。 俺は、紛れもなく男の子が好きだ。 そんな奴の居場所は現実にない。いや、俺から現実を見限ってやった。 大学生になったら、童貞をこじらせた女嫌いの可哀想な野郎だと馬鹿にされるようになった。その代わり、類は友を呼ぶという言葉が存在する通り、俺の周りは女嫌いの童貞だらけになった。 女とつくものは何でも、目の敵にするあいつらだって、本当はそれを欲しているんだと俺は気づいている。俺と、山田以外はみんな。 山田だけは、それほど女嫌いには見えないけれど関心のなさは随一。俺と同じできっと、男の子が好きなんだと踏んでいる。 この前俺の家に遊びにきたとき、山田が俺の本棚の奥、秘密の冊子たちをちらちら確認しているのを見て、気がついた。山田はきっと、俺と同じ。そうに違いない。 夏が来ると俺は、普段にも増して山田を誘って出かけた。海、山、プール、夏祭り、遊園地もお化け屋敷も。 口には出さなかったが勿論、男の子と接触するためだ。山田を誘うといつもあいつは、俺と同じ戦いの目をした。やっぱりそうだ、やっぱり。俺に初めて仲間ができたのだ。 無駄に広い教室の、出入り口から1番遠いいつもの席に眠たそうな顔をした山田が座っているのを見つけた。山田、と声をかけて、クリアファイルから一冊の薄いパンフレットを取り出す。 「今度はこれに行こう」 さっきまでの眠たそうな目が、少し空いている。山田がそのパンフレットを読み込んで、しばらくして顔を上げる。 「なんで温泉旅行なの?」 「それだけじゃない」 一枚めくって次のページには、お子様も楽しめるイベント満載!と、でかでか書いてある。子どものイベントと温泉旅行がセットでついてる。これは行かないとだめだ。ほら、と俺は目で訴える。 山田が顔を赤くする。それから、分かったとスマホで予約画面を開く山田の迅速な対応に感心する。やっぱり、山田も飢えているんだ。これは手応えがある。かなり期待大の接触ができる。いや、勿論、見るだけだ。 ———- 常日頃から考えていることが、現実に起こることがまれにある。 温泉旅行なんて俺、その設定で昨日さ、 つい口が滑ってしまいそうになって、急いで口を結ぶ。スマホを取り出して、ニヤけてしまう顔を見られないように俯いた。 嬉しさで手が震えて、予約を何度か間違えてしまったり、ちょっと高めのオプションをつけたり、それも何もかもが現実のものだとまだ信じられない。 授業終わりのチャイムがなるまで、もらったパンフレットを眺めていた。 「山田、こっち、温泉ある。」 旅館について早々、緊張ぎみの彼の声が聞こえた。彼は、いつもより表情が明るくて、俺が何も言っても「そうしよう」と嬉しそうな空返事だけをする。きっと彼は、男の子を探していて、目で追うのに忙しくて、俺の話を聞いていない。それでいい。俺を見なくていい。そのほうが俺も、彼を心置きなく見つめていられる。 「あ、山田、ちょっと休憩しようか」 時折り、思い出したように俺を見る。それでいい。それでいいと思う反面、俺を見つめる彼の目が俺の後ろを見ている気がして、悲しくなったりもした。 一日中イベントを巡って、全てのスタンプラリーに参加しつくして、それからやっと旅館に戻ってきた。疲れているはずなのに、彼はまだ満足していない。これからが本番だというように、律儀に浴衣に着替え直すのを、横目で見る。浴衣に温泉って。うわ、また。昨日の夜も考え始めてしまってよく眠れなかったのに。 「ごめん。先行ってて」 俺ちょっとお腹痛い。雑な理由でも、彼は疑うことなく頷いて、お風呂セットを片手に「じゃあ後で」と部屋を出て行った。 彼がいなくなってしばらくしてから、俺は静かに静かに、彼の綺麗に畳まれた服を手に取ってトイレに行く。 ごめん、ごめん、ごめん、本当にごめん 心の中で謝り続けているのに、少しも手が止まらない。彼の服から、彼のにおいがするのを鼻からいっぱい吸い込んで、口から息を吐く。なんでこんなにいいにおいなの。鼻からめいっぱい吸う。繰り返して、俺は自分自身を抑える。 「山田、山田、」 ふいに彼の声が聞こえた。えっ、え、まさか。とっさに返事をする。焦りから手が震え出した。 「山田ってさ、」 「な、なに?」 声も震えた。緊張を唾と一緒に飲み込む。 「絵、書くのうまかったよなあ」 彼の問いかけが、一体何を意味しているのか分からなくて混乱する。もう早く出てって欲しい。ベトベトの手を、変な音が出ないようにゆっくり拭く。 「それで、やっぱり一緒に入ろうと思って、ここで待ってることにした。」 彼のその言葉が聞こえて、顔から体から、汗が出てきて止まらなくなった。手と足の震えがさっきより激しくなる。 「わ、かったけど、もうちょっと、かかる、かも」 「時間ならあるから、待つよ」 彼の服が、俺の汗を吸い込むのが見えてまた、呼吸が乱れ始める。やばい、やばい。焦る俺をよそに、彼がお風呂セットを置く音が聞こえてくる。 「時間ならあるから待つ。」彼がそう言うとき、絶対に待つんだと俺は充分すぎるほど知っている。 「せっかくだし、温泉の風景みたいなの、ちょっと山田に書いてみて欲しい。写真の代わりに思い出にするから」 そう言う彼の声は昼間と同じく、少し弾んでいるように聞こえた。 ああそうだった。彼にとって、温泉こそが今日一番の目玉なんだった。こうして俺が篭ってるうちに、刻一刻と時間は過ぎて、そのうち10時を過ぎれば子供は寝る。空っぽの温泉で彼が、少し悲しそうな顔をするのが想像できてしまう。 それでも彼は待つ。あとで行くから、と言っても、どうせなら一緒に行こうと頑なに返してくる彼に対して、うまい誤魔化しを俺は知らない。彼が部屋から出てくれさえすれば、俺はすぐにでも服を戻して温泉にいけるのに。 「鈴木くん、」 トイレのほうに近づいてくる足音がする。それから、ドアの近くから心配そうな声がする。汗が伝う。震える手で鍵を開ける。もう背に腹は変えられない。 「ごめん、俺、引かないでほしくて」 トイレのドアを開けると、彼がいる。俺を見て、それから俺が手に持っている彼の服を見る。視線が交互に移動する。 「それ俺の服、」 「俺さ、その、好きっ、って、いうか、」 絶対に、このタイミングじゃなかった。何度も温泉旅行の妄想はしたし、告白の仕方だって考えていた。でもこれじゃなかった。こんなんじゃ。 彼が目を丸くして、俺を見ている。 「ごめん、俺、お前にもう、会わす顔ない」 彼の目は、さっきと変わらず俺をしっかり見ている。目が合わないように、少し逸らして、それから左右に視線を持って行って、最終的には彼の足の爪を見つめることにした。彼の健康的な足が、俺の方へ少しずつ寄ってくる。 「え?山田はつまり、そういうこと?つまり、」 言葉を濁して明確にしないまま、俺が持っていた服をそっと引く。消えてしまいたい、恥ずかしさで立ってるのもつらい。俺の前で、彼は服を広げて見ている気配がした。きっとシミになってしまった俺の汗と、俺の。 「こういうのがしたくて、俺と仲良くしてたってこと?」 彼との関係が変わることを何度か夢に見たことがある。綺麗なBGMが鳴って、嬉しい、嬉しいと俺は泣いている。でも現実はそうはいかない。そんなBGMは流れない。ただ、刺すような重い空気の中で、俺がごめんなさいごめんなさいと謝り続けている。 ——- 俺と山田が求めていたものは違った。 泣きじゃくる山田を置いて、とにかく落ち着こうと部屋を出た。 俺は男の子が好きで、あいつは俺のことが好きだって。 俺の中で、何かが燻っている。 さっきのあいつの泣き顔を思い出す。山田のしていたことには少し引いたものの、あれだけ泣かれると、許してやりたいような気になる。 嫌いになんないで、と途切れ途切れの泣き声がふっと頭をかすめた。可哀想だったな、山田。可哀想だった。可哀想で、かわいかった。 ピンポーンという正解を示す音が、遠くで鳴った。見ればゲームコーナーのゲーム台に◎のボードが出ていた。男の子が楽しそうにハイタッチしている。 ああそうか、そうか。新しい扉が開く。とにかく、なんだかこの世界が違って見えてくる。そうか、そうか、あの時もそんな感覚だった。 俺はショタコンじゃなくて、ただ、男が泣いているのが、可哀想なほど悲惨なのが、それを自分の手で支配できることが、俺は、それが好きだった。 温泉は明日の朝入ればいいか。はやる気持ちを、もう抑えなくていいのだ。急いで来た道を戻る。 190904

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